安息日学校部

第5課 聴覚しょうがい者用 磯部豊喜

2022年第3期「試練を共にされるキリスト」

PDFダウンロード ルビ付きはこちらからご覧ください

第5課  厳しい試練  磯部豊喜

 

1.安息日午後

最近、コロナ感染やウクライナ戦争を止めない(止められない)神を考えることがあります。…これを考えると、次の二つの解釈をすることはありませんか。

①コロナ感染やウクライナ戦争が終るように祈っているのに、なぜ神はそうしないのか。

『だから神は存在しない(神はいない)』のでは。

また、

②『神はコロナ感染やウクライナ戦争に対して何とも思わない、これが神の本当の姿なのだ』

という考えです。

*そこで、神を愛することを望まれる民に誤解されてしまうという危険をなぜ冒されるのか。また「御子に似た者」に導くとはいえ、神はどこまで人に誤解されてもかまわないと思われるのか、という疑問について今週は学びます。

 

2.日曜日:試練の中のアブラハム

「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい』」(創世記222とあります。これはアブラハムに告げられた神の言葉ですが、別の聖句の「あなたの子どもをモレクにささげてはならない。」(レビ18:21、口語訳)という教えに反しています。さらにアブラハムの場合、あなたの子孫を星の数のようにされる(創世記15:5)という約束とも矛盾します。しかしこれはアブラハムの苦悩まで正確に計算されたものであったようです。

◇「神は、アブラハムに年月の重荷がのしかかり、心労と労苦からの休息を願うころになって、最後の最もきびしい試練を彼のためにとっておかれた」(『人類のあけぼの』上巻153ページ)

◇「あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、人類の贖罪のために払われた無限の神の大犠牲を、アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許された」(同161ページ)

 

3.月曜日:わがままなイスラエル

ホセア2:3~14(口語訳2:1~12)が紹介されています。ホセアの妻ゴメルは、他の男たちに走る女性でしたから、彼女の産む子らは、ホセアの子ではありません(不誠実の子)。神はホセアにこのような妻を連れ戻し、愛の限りを尽くすように召されます。これは神(ホセアがあらわす)とイスラエル(ゴメルがあらわす)の関係を示しています。

イスラエルの民は、神ではない者(=バアル)と霊的な姦淫を犯していました。それでも神はゴメルを愛するホセアのようにその民に愛を注がれます。ホセアはゴメルへの愛を、いばらを用意することで表されます。ゴメルはホセアの愛の行動だと気づいても、その愛をうっとうしい(面倒だ)と思います。このゴメルのように、わがままな者は、試練を、私たちを造りかえようとされる愛の神としてではなく、神を冷酷なお方だと勘違いしてしまいます。

 

4.火曜日:神をほめたたえて耐える

火曜日はヨブ1:6~2:10です。ヨブの苦難には、試練の背後にうごく一人の存在を教えます。天使の中に「サタンも来てその中にいた」(16、口語訳)とあります。このサタンは神に挑戦状を出します。しかしここで覚えたいのは、神の言葉です。「ヨブは自慢の子である」と言ったのは神様です。サタンは神の自慢の子(ヨブ)というので、彼を奪い取ろうとします。それが挑戦状となりました。ヨブは神とサタンとのやりとりを知りません。当然、自分の身に起こることも知りません。サタンは直接にヨブに苦しみを与えますが、サタンは神の指示を越えて働く事は出来ません。しかしここで苦難を許される神は、本当に聖であり義であると言えるのかという疑問が起きます。大切なことは苦難をどう受け止めるかです。神に背を向けること、またはなおも神により頼むことも出来ます。ヨブはこの災いの中で、まったく神に文句を言わず、むしろ「主のみ名はほむべきかな」(1:21、口語訳)と言ってその苦難を乗り越えました。

 

5.水曜日:希望をもって耐える

Ⅱコリント1:8、9を瞑想します。パウロは、神の選びに応答したものの、そこには試練がありました。彼は試練に押しつぶされません。むしろ神を苦難にあって賛美する術(すべ)を身につけ、その信仰は成長します。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(同1:4)とパウロは苦難を受け止めました。信仰を、苦難から免れる逃げ場とはとらえず、むしろ苦難を乗り越えるために信仰があるととらえる。⇒Ⅱコリント1:10、11が鍵。

 

6.木曜日:厳しい試練

イザヤ43:1~7を学びます。私たちが幸せになるために、試練が必要なのでしょうか。この罪の世にあっては理解できないことだらけです。今は「おぼろげにしかみえない」(Ⅰコリント4:5、13:12参照)ので、将来に目を向けるのです。イザヤ43:1~7には、試練の三つの形を認めます。

  • 厳しい試練は、私ではなく、私の罪を焼き尽くすものである。
  • 厳しい試練は、私を惨めにするのでなく、創造当初の姿にする。
  • 厳しい試練は、神の変わらない憐れみ深さを知るためにある。

*神は我々に何が起ころうとも、決してお見捨てになることはないことを覚えましょう。

 

7.金曜日:さらなる研究

「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。」(イザヤ53:10、口語訳)は、今週の暗唱聖句です。

これはイエス様が誕生なさる約800年前の預言者イザヤに与えられました。この「彼」は「やがてくるメシヤ(キリスト)」を指しており、「主」は「神」を指しています。

この聖句は、分かりやすい聖書(リビングバイブル)では、「彼を傷つけ、悲しみで満たすのは、主の計画だったのです。罪の赦しのためのささげ物として、そのたましいをささげるとき、彼は多くの子孫を見ることができます。彼は、復活し、神様の計画は彼の手によって成し遂げられます。」と訳されています。

イエスさまは厳しい試練を、私どもの受ける試練の前にすでに歩まれたお方であることを覚えたいと思います。