2021年第3期「キリストにある休み」
第4課 あなたの神、主を愛しなさい 松本 裕喜
- 今週のポイント
- 神を愛しなさいと言われても、神の愛を知らなければ神を愛しようがありません。神の愛は私たちが神を愛する動機となります。また、神を愛するにも、心と魂と力を尽くして愛しなさいと言われており、つまり他の何よりも神を愛することが求められています。神を愛するために、私たちは神に何をしていただいたかを知らなければなりません。すなわち、私たちが神から離れようとも私たちを追いかけ、命をもって私たちの罪を贖ってくださったほど私たちを愛してくださったということです。
- 神を畏れるということにおいても、その動機付けは神を愛することと同じです。エフェソ2:1-10にあるように、私たちが神の怒りを受けるべき者であったにもかかわらず、イエスは私たちのために死んでくださり新しい命を与えてくださいました。神は私たちの罪の責任を代わりに負うという驚くべき方法で私たちを救われました。そのことのゆえに私たちは神を畏れるのです。「神を畏れるという意味は、人生のあらゆる瞬間において、神と神の教えに従うように決意するという意味です。主の臨在の中に生き、主を意識し、神とみ心を考えて決定していくという意味です」(副読本33頁)。
- 神が愛してくださったというのは、神が私たちに何をなさったかという具体的な行動に表れています。神の愛は私たちが存在する前から救いの計画の中に既に表されていたというのですから、「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」とパウロが言ったその気持ちが少しはわかるような気がします(ローマ11:33)。
- 神に愛された私たちが神を愛するということについて申命記は繰り返し、神を愛することと戒めを守ることを一緒に述べていますし、イエスもそのように言われました(ヨハネ14:15)。神の戒めを守ろうと、喜んでそうしたいと思えれば自然で楽ですが、神の戒めと聞いてしんどさを感じるなら、その原因は何なのかを見直す必要があるでしょう。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(1ヨハネ4:18)。
- マルコ12:28-30でイエスは、神を愛することが第一であると言われました。神を愛するということは決断であって、その時の気分に左右されるような気紛れなものではありません。神に自分を捧げることを決断する人を、天が味方になって助けてくださり、喜びや平和、寛容、親切などの霊の結ぶ実が結ばれていきます(ガラテヤ5:22-23)。
- ディスカッションのためのテーマ
- なぜ私たちは、神を愛し、同時に神を畏れるべきなのでしょうか。それはどうすれば可能なのでしょうか。
- 人生の順境の時に神を愛することはできるかもしれませんが、悲劇が襲った時にも愛せるでしょうか。逆境の時に主を愛することは、なぜ順境の時に愛することよりも重要なのでしょうか。