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第3課 人間の本質を知ること 眞田 治
1.安息日午後
今週は、人が「生きる」とはどういう意味か、そして、人が「死ぬ」とはどういう意味かを、聖書の言葉に基づいて学びます。
2020年3月29日、タレントの志村けんさんが新型コロナの肺炎のため亡くなられました。志村けんさんは、新型コロナで亡くなった、日本で53番目の人だそうです。
志村けんさんが亡くなったと知って、私たちは、「コロナは本当に怖い病気だ」と思いました。53人という人数を知るよりも、志村けんさんが亡くなったと知るほうが、私たちは、人間が生きて、そして、死ぬことについて、真剣に考えるようになりました。1人の人の死によって、生きることと死ぬことについて、私たちは真剣に考えるようになったのです。
今週、私たちは、人が「生きる」ことについて、そして「死ぬ」ことについて、聖書の言葉に基づいて学びます。たくさんの人々が生きて死ぬことについて考えることも、大切です。しかし、あなたの大切な1人の人が生きて死ぬことについて考えることは、もっと大切です。そして、あなた自身が生きて死ぬことについて考えることも、大切です。今週、あなた自身のために、そして、あなたの大切な1人の人のために、真剣に学んでいただきたいです。
2.日曜日:「生きる者」
創世記2章7節を読みましょう。今週の暗唱聖句ですね。「聖書協会共同訳」という翻訳です。
神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。
創世記2章7節に書いてある人は、アダムという名前です。アダムに神さまが命の息を吹き込まれる前から、アダムの体の形は、ありました。しかし、アダムが「生きる者」になったのは、命の息が体に吹き込まれた後のことです。「命の息」と体が合わさって、アダムは「生きる者」になりました。
神さまがアダムの体に吹き込まれたのは「命の息」であって、「アダムの魂」ではありません。体とは別のところにアダムの魂があったのではありません。体の形だけでは、アダムではありません。命の息だけでも、アダムではありません。命の息と体が合わさって、アダムになったのです。
私たちが人として生きる者である理由は、神さまによって形づくられた体に、神さまによって与えられた命の息があるからです。あなたの体を、神さまは形づくってくださいました。あなたの体に、神さまは命の息を与えてくださいました。あなたが人として生きる者である理由は、神さまによって形づくられた体に神さまによって与えられた命の息があるからです。あなたの体とは別のところに「あなたの魂」があるのではありません。あなたは、神さまによって形づくられた体と神さまによって与えられた命の息が合わさって、あなたです。あなたは、世界に1人だけのあなたです。たくさんの人々を大切にしてくださる神さまは、あなた1人のことも、いつも大切にしてくださっています。
3.月曜日:「罪を犯した魂は必ず死ぬ」
神さまによって形づくられた体に神さまによって与えられた命の息があるから、人は生きる者であると、日曜日の昨日、学びました。人の体とは別のところに、人の魂だけがあるのではありません。体と魂とが合わさって、人は生きる者なのです。
だから人が死ぬときも、体と魂が合わさった人が死にます。体が死んだ後でも魂だけが別のところで生きるのではありません。
エゼキエル書18章4節や18章20節には、「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と書いてあります。人が死ぬときは、体と魂が合わさった人として死にます。
私たちは死ぬのが怖いです。私たちは死にたくありません。しかし大丈夫です。神さまは約束してくださいました。ローマ書6章23節を読んでみましょう。
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマ書6章23節に書いてある報酬と賜物について考えましょう。報酬とは、当たり前に与えられるものという意味です。だから、「罪が支払う報酬は死です」とは「罪を犯した人が死ぬのは当たり前です」という意味になります。一方の賜物は、特別に与えられるプレゼントという意味です。だから「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」とは、「特別なプレゼントとして神さまは永遠の命を与えてくださいました」という意味になります。死ぬのが当たり前の私たちの代わりに主キリスト・イエスが十字架で死んでくださったから、私たちには永遠の命が特別にプレゼントされたのです。
私たちは体と魂とが合わさった人として、永遠の命を生きる者なのです。
4.火曜日:「霊は与え主である神に帰る」
今週の暗唱聖句、創世記2章7節を読みましょう。「聖書協会共同訳」という翻訳です。
神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。
創世記2章7節に書いてある「息」という言葉には、「霊」とか「魂」とかいう意味もあります。
それから、コヘレトの言葉(伝道の書)12章7節を読みましょう。
塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
次に、コヘレトの言葉(伝道の書)12章7節を、「聖書協会共同訳」という翻訳で読んでみましょう。
塵は元の大地に帰り、息はこれを与えた神に帰る。
「息」という言葉と「霊」という言葉が、同じような意味で使われていますね。
人が死ぬときは、体と魂が合わさった人が死にます。死んだ後の人は、無意識になります。死んだ後は、苦しみも悲しみも痛みも、すべて消え去ります。しかし、死んだ人のことを、神さまは忘れないで覚えておられます。人が生きる者となるために命の息を吹き込まれた神さまの元に、死んだ人の命の息は帰ります。元々神さまから与えられた命の息は、人が死んだ後は、神さまに帰るのです。
主イエスさまを信じて死んだ人は、主イエスさまが再臨なさるとき、新しい命を与えられて復活します。神さまは人を復活させるため、ひとりひとりの死んだ人を忘れないで覚えておられます。あなたがもしも死んだら、あなたは無意識になります。あなたが死んだ後は、苦しみも悲しみも痛みも消え去ります。しかし神さまは、あなたが死んでもあなたを忘れません。神さまはあなたを永遠に覚えてくださっています。あなたが生きる者となるために与えられた命の息は、あなたが死ぬときに神さまの元に帰りますが、主イエスさまの再臨のとき、新しくされた永遠の命の息を神さまはあなたに与えてくださるのです。
5.水曜日:「死者はもう何ひとつ知らない」
コヘレトの言葉(伝道の書)9章5節には、「死者はもう何ひとつ知らない」と書いてあります。そしてコヘレトの言葉(伝道の書)9章10節には、「いつかは行かなければならないあの陰府には 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」と書いてあります。
昨日の火曜日に、死んだ人は無意識であると学びました。死んだ人にとっては、苦しみも悲しみも痛みも、仕事も企ても、知恵も知識も、すべて消え去っているのです。しかし神さまは死んだ人のことを忘れることなく、再臨のときに復活させてくださると、学びました。
今日は、コヘレトの言葉(伝道の書)9章10節に書いてある「陰府」(よみ)という言葉について考えましょう。陰府とは、死者の状態のことです。マタイ福音書11章23節には「陰府にまで落とされる」という表現があります。「陰府に落とされる」書いてあるので、陰府とは死者を苦しませ続ける場所だと勘違いしている方々がいらっしゃいますが、しかし、陰府とは、死者を苦しませ続ける地獄ではありません。なぜなら陰府には知恵も知識もなく、死者はもう何ひとつ知らないからです。「陰府にまで落とされる」とは、死んだ人が無意識の状態の眠りに落ちることです。
陰府と似たような言葉で、地獄という言葉も聖書に書いてあります。主イエスさまは、マタイ福音書10章28節で、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言っておられます。地獄は滅ぼす場所だと教えておられるのです。地獄は、苦しめることが目的ではなく滅ぼすための場所です。苦しみも悲しみも痛みも、罪も、滅びます。罪をゆるしてくださる主イエスさまを信じない人は、罪と一緒に魂も体も滅ぼされます。しかし、罪をゆるしてくださる主イエスさまを信じる人は、罪だけが滅び、イエスさまの再臨のときに罪がない人として復活します。「滅ぼすことができる方を恐れなさい」とは、滅ぼす力と救う力の両方を持っているイエスさまを信じなさいという意味です。
イエスさまを信じて死んだ人もイエスさまを信じないで死んだ人も、死んだ後、いったん陰府の状態で眠ります。イエスさまを信じた人は、イエスさまの再臨のときに陰府から復活して天国に挙げられます。しかし、イエスさまを信じない人は、イエスさまの再臨の後の千年期の最後に、陰府から復活して、イエスさまを信じなかったことを後悔しながら、完全に滅ぼされます。天国で救われるためには、この世で生きている間に主イエスさまを信じなくてはなりません。イエスさまは「死と陰府の鍵を持っておられる」御方です(黙示録1章18節)。死んだ後で陰府に眠っていても、主イエスさまを信じて眠りについた人は、天国へと救い出してもらうために陰府の鍵を開けてもらえるのです。
6.木曜日:先祖たちと共に眠りにつく
創世記25章8節には、アブラハムが死んで「先祖の列に加えられた」と書いてあります。
サムエル記下7章12節には、「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき」と書いてあります。
列王記上2章10節には、ダビデが死んで「先祖と共に眠りにつき」と書いてあります。
人が死ぬと「先祖」と呼ばれるようになります。旧約聖書の時代の昔に死んだ人も去年お亡くなりになった人も、死んだ後は平等に「先祖」です。神さまや主イエスさまを信じて死んだ先祖は、主イエスさまの再臨のとき、だれでも平等に復活して、天国に挙げてもらえます。しかし、神さまや主イエスさまを信じないで死んだ先祖は、イエスさまの再臨の後の千年期の最後に、だれでも平等に短期間だけ復活して、信じなかったことを後悔しながら滅ぼされます。救われるか救われないかの条件は、だれでも平等なのです。
あなたの大切な人が死んで「先祖」と呼ばれるようになる前に、あなたの大切な人が主イエスさまを信じるよう、勧めましょう。
7.金曜日:さらなる研究
マルコ福音書12章18~27節を読みましょう。
復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
マルコ福音書12章18~27節でサドカイ派の人々が言いたかったことは、「復活はない」、「天国はない」ということです。対するイエスさまが言いたかったことは、「復活はある」、「天国もある」ということです。
夫が死んだために再婚し、複数の男性と結婚したことがある女性のことをサドカイ派の人々は例に出し、「もしも復活や天国があるんだったら、天国は、1人の妻に複数の男性が夫になる、不健全な場所なんですか? 結局は、復活も天国も、ないのではないですか?」と言いたかったのです。サドカイ派の人々からの挑戦に答えて、イエスさまは、「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われました。「天国には結婚というものはないのだから、この世で複数の人と結婚したことがある人でも、安心して天国に入れる」という意味でしょうか。そして、イエスさまは、「モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われたのです。
モーセの時代、アブラハムもイサクもヤコブも、もう死んでいました。神さまは、もう死んだ後の人のことをも、忘れないで覚えておられます。なぜなら、主イエスさまの再臨のときに復活させて、また天国で会うことができるからです。もしも死んだ人が復活しないのだったら、死んだら終わりですから、死んだ人のことを覚えておく必要はありません。神さまは、アブラハムのこともイサクのこともヤコブのことも、必ず復活させる。だから、忘れないで覚えておられるのです。神さまは、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」です。人間の記憶では、アブラハムのこともイサクのこともヤコブのことも、忘れることがあります。しかし神さまの記憶では、アブラハムのこともイサクのこともヤコブのことも、忘れることがありません。もう死んで無意識の状態にあるアブラハムのこともイサクのこともヤコブのことも、神さまは記憶の中で、まるで生きているかのように覚えておられます。なぜなら神さまは永遠の御方であり、永遠の神さまにとって、すでに死んだ過去の人のことや、将来の復活や天国のことも、まるで現在のことのように考えることがおできになるのです。
E・G・ホワイトは『各時代の希望』という本の第66章で、「死んだ者は神に生きるのである」と書いています。三育学院カレッジ神学科の校長だった高橋義文先生は、『憶えられていることを覚えよ』というエッセーで、「死とは、『神の記憶』のなかへと入っていくことではないか」と書いています。E・G・ホワイトが書いていることも高橋義文先生が書いていることも同じ意味ではないかと、私は思います。
死は、悲しいことです。死は、怖いものです。しかし、死んだ人のことを忘れないで覚えてくださる神さまを信じるならば、「生きる」ことにも「死ぬ」ことにも希望があると分かります。あなた自身が救われ、あなたの大切な人も救われるために、主イエス・キリストを信じ、伝える人になってください。あなたと、あなたの大切な人を、神さまがたくさん祝福してくださいますように。