安息日学校部

第12課 聴覚しょうがい者用:眞田 治

2021年第4期「申命記に見る現代の心理」

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第12課  新約聖書に見る申命記  眞田 治

 

1.安息日午後

三育学院カレッジ神学科で勉強していたころに、旧約聖書の先生から繰り返し教えていただいたことがあります。「イエスさまを探しながら旧約聖書を読みなさい」と。

「……と書いてある」(マタイ福音書4章4節など)とイエスさまが言われるのは、「旧約聖書に書いてある」という意味です。「これは聖書の言葉が実現するためである」(マルコ福音書14章49節)等とイエスさまが言われるのは、「旧約聖書に書いてあることが実現するため」という意味です。旧約聖書を読んでいると、イエスさまと関係ある言葉が、たくさん見つかるのです。

旧約聖書の中で、新約聖書に一番たくさん引用してあるのは、詩篇とイザヤ書、それから申命記です。申命記から新約聖書に引用されている箇所を今週は勉強しましょう。

 

2.日曜日:「……と書いてある」

まず、マタイ福音書4章1~11節を読みましょう。

 

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』

と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。

『神があなたのために天使たちに命じると、

あなたの足が石に打ち当たることのないように、

天使たちは手であなたを支える』

と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。

『あなたの神である主を拝み、

ただ主に仕えよ』

と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 

新約聖書のマタイ福音書4章1~11節には、旧約聖書の申命記からの引用が3か所あります。

「人はパンだけで生きるものではない。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

は、申命記8章3節から、イエスさまが引用なさったのです。

「あなたの神である主を試してはならない」

は、申命記6章16節から、イエスさまが引用なさったのです。

「あなたの神である主を拝み、

ただ主に仕えよ」

は、申命記6章13節から、イエスさまが引用なさったのです。

イエスさまは旧約聖書の申命記の言葉を引用なさって、「……と書いてある」と言われました。イエスさまは聖書の言葉を使って、悪魔からの誘惑に勝利なさいました。私たちも聖書の言葉を覚えて祈ることで、誘惑に負けないで勝利することができます。

 

3.月曜日:人を偏り見ること

旧約聖書の申命記10章17節を読みましょう。

 

あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず

 

申命記10章17節に書いてある「人を偏り見ず」というのは、公平とか平等とかいう意味です。神さまは、どんな人のことをも、公平で平等に見てくださっています。

神さまが人々を公平で平等に見てくださるというのは、旧約聖書の申命記だけではなく、新約聖書にも同じ意味のことが書いてあります。たとえばローマ書2章11節には、「神は人を分け隔てなさいません」と書いてあります。

マタイ福音書5章43~45節で、イエスさまは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と言っておられます。神さまが公平で平等に人々を愛してくださるので、私たちも公平で平等に他の人々を愛することができます。旧約聖書や新約聖書に書いてある神さまの言葉を信じる人々は、考え方や行動が神さまに似たように変えられていくのです。

 

4.火曜日:木の呪い

「呪い」というのは、だれかに悪いことが起こるようにと願うことです。だれかに良いことが起こるようにと願う「祝福」とは、呪いは反対の意味ですね。

新約聖書のガラテヤ書3章10節にも、呪いのことが書いてあります。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」ガラテヤ書3章10節には、旧約聖書の申命記27章26節の、「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる」という言葉から引用されているのです。

呪いという言葉は、ガラテヤ書3章13節にも書いてあります。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」。ガラテヤ書3章13節には、申命記21章23節の、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という言葉から引用されているのです。

律法を守り行わない者は呪われると、旧約聖書の申命記27章26節にも新約聖書のガラテヤ書3章10節にも書いてあります。私たちは、律法を完全に守り行うことができません。律法には、他の人をうらやましく思ったらダメだと書いてあります(十戒の第10条)。私たちは、他の人々をうらやましく思ったことが必ず1度以上ありますので、私たちは必ず呪われることになってしまいます。しかしキリストは、私たちの身代りに呪いとなってくださいました。木で作られた十字架にかけられて、私たち人間の身代りに呪いを受け入れてくださいました。木(十字架)にかけられた人は呪われた人だと旧約聖書の申命記21章23節にも新約聖書のガラテヤ書3章13節にも書いてあるとおりに、イエス・キリストが十字架にかけられて私たちの身代りに死んでくださったので、もう私たちは呪われていません。私たちは滅びません。私たちは天国で生きます。律法を守れないので呪われなければならないのは私たちのはずなのに、律法を守られたイエスさまが私たちの身代りに呪われてくださったので、私たちは呪われなくてもよくなったのです。イエス・キリストが十字架にかけられて身代りに死んでくださったと信じる人は、呪いではなく祝福を受けて、永遠に天国で生きることができます。信じる信仰によって生きるのです。ガラテヤ書3章11節に「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』」と書いてあるとおりです。

信じましょう。十字架のイエス・キリストを信じて、祝福された永遠の命を生きる者とさせていただきましょう。

 

5.水曜日:あなたのような預言者

旧約聖書の申命記18章15節を読みましょう。

 

あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。

 

申命記18章15節で「わたし」というのは、モーセのことです。モーセの後の時代にもモーセのような預言者が来ると書いてあるのです。後から来るモーセのような預言者とは、だれのことでしょうか?

新約聖書のヨハネ福音書6章14節には、「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」と書いてありますが、「世に来られる預言者」というのは、モーセのような預言者のことです。「イエスのなさったしるし」というのは、ヨハネ福音書6章14節の直前の6章1~13節に書いてありますが、イエスさまがパンを増やして多くの人々に食べさせた出来事です。イエスさまがパンを増やして食べさせてくれたので、人々は、旧約聖書に書いてあるモーセのような預言者というのはイエスのことだと思ったのです。次の6章15節には「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」と書いてあります。モーセの時代に40年間にわたって天からパンが降り続けた出来事をイエスさまによって起こしてほしいと、人々は期待したのです。一度や二度ではなく、ずっとパンを食べさせてくれる王さまになってほしいと、人々はイエスさまに期待しました。しかし、イエスさまは山に退かれました。イエスさまは、ずっとパンを増やし続ける王さまには、ならないからです。

もう一度、申命記18章15節を読んでみましょう。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」

モーセのような預言者というのはイエスさまのことですが、イエスさまはパンをずっと増やし続ける預言者ではなく、人々がイエスさまの言葉に従わなければならない預言者です。イエスさまは人から頼まれて王さまになるのではなく、イエスさまは永遠の昔から宇宙全体を支配しておられる王さまなのです。永遠の宇宙の王であるイエスさまが、預言者のように言葉を伝えられます。私たちは、王であり預言者であるイエスさまの言葉を読んだり聞いたりして、イエスさまの言葉に従って生きます。

 

6.木曜日:恐ろしいこと

今週のガイドの安息日の午後に、「イエスさまを探しながら旧約聖書を読みなさい」と書きました。

申命記17章6節には「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない」と書いてあります。申命記17章6節を読んで、イエスさまのことで、あなたはどんなことを思い浮かべますか? 旧約聖書の申命記17章6節を読んで、思い浮かべる新約聖書の箇所がありますか?

マルコ福音書14章55~59節を私は思い浮かべました。イエスさまが裁判にかけられている場面です。読んでみましょう。

祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。

主イエスさまは、悪いことをなにもしていません。悪いことをなにもしていないイエスさまなのに、祭司長たちは、イエスさまを十字架で殺そうとして、ウソの証言でイエスさまのことを悪く言うのです。「偽証」の「偽」という漢字は「いつわり」とも読むことがあり、ウソと同じ意味です。真実は1つですが、「ウソ八百」という言葉があるように、ウソはたくさんあります。たくさんあるから、一人一人バラバラなのです。だから、二人または三人の証言が一致するという、申命記17章6節の言葉どおりにはならなかったのです。

イエスさまに反対していた祭司長たちは旧約聖書を信じているつもりでしたが、二人または三人の証言が一致していない証人を立てたことからも分かるように、旧約聖書の申命記17章6節にも反対する結果になりました。信じているつもりと、本当に信じていることとは、意味が違うのです。

私たちは信じているつもりではなく、本当に信じている本当の信仰を持ちたいと願います。

ヘブライ書10章31節には、「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」と書いてあります。とても優しい神さまです。とても優しい神さまを信じている私たちは、神さまにお会いできるのを楽しみに待っています。しかし神さまに反対する人々にとっては、神さまに出会うのは「恐ろしいこと」です。

ヘブライ書10章31節の少し前、10章28、29節を読んでみましょう。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

新約聖書のヘブライ書10章28節に「二、三人の証言に基づいて」と書いてあるのは、もちろん旧約聖書の申命記17章6節からの引用です。

律法というのは十戒だけのことでなく、十戒も含めた旧約聖書のことです。旧約聖書に書いてある一番大切なことは、神の御子キリストが救い主として来られ、信じる人々を救ってくださるということです。神の御子イエス・キリストを信じている人々を、神さまは救ってくださいました。しかし、神の御子に反対する人々は恐ろしい滅びを経験しなければならないと、ヘブライ書10章28節で警告されているのです。

まだ主イエス・キリストを信じていない人々には、早く信じるように伝えましょう。そして、まだ信じていない人々が信じることができるよう、祈りましょう。信じているつもりではなく本当に信じる人々が増えるよう、毎日お祈りしてください。

 

7.金曜日:さらなる研究

日曜日に学んだマタイ福音書4章1~11節を、もう少し詳しく考えたいと思います。

「人はパンだけで生きるものではない。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4章4節)

は、申命記8章3節から、イエスさまが引用なさったんでしたね。

「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ福音書4章7節)

は、申命記6章16節から、イエスさまが引用なさったんでしたね。

「あなたの神である主を拝み、

ただ主に仕えよ」(マタイ福音書4章10節)

は、申命記6章13節から、イエスさまが引用なさったんでしたね。

神の口から出る一つ一つの言葉が大切だと、イエスさまは言われました。神の言葉を伝えるのは預言者の役割です。主イエスさまは、まことの預言者でいらっしゃいます。神さまの言葉を、本当に正しくお伝えになったからです。

神殿の屋根から飛び降りるようにという悪魔からの誘惑に対して、イエスさまは「あなたの神である主を試してはならない」とお答えになりました。神殿は、人々の罪の身代りに犠牲がささげられて、人々を救うための場所でした。神さまが人々を救うための神殿を、悪魔は、神さまを試すために悪用しようとしたのです。だからイエスさまは、人々を救ってくださる神さまを「試してはならない」と悪魔に対して答えられたのです。神殿は、飛び降りる場所ではなく救う場所なのです。人々の救いのために神殿で働いているのは祭司でした。イエスさまは、まことの大祭司でいらっしゃいます。人々を罪から救うためにイエスさまは働き、人々を罪から救うためにイエスさまご自身が身代りに死んでくださったからです。

悪魔を拝むように悪魔から誘惑されたとき、イエスさまは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という申命記6章13節の言葉を引用して、悪魔を拝みませんでした。主イエスさまは、永遠の宇宙を支配する本当の神で、まことの王でいらっしゃいます。この世を悪魔が支配しているかのように見えても、じつは本当の支配者はイエスさまでいらっしゃいます。本当の王さまはイエスさまなのです。

イエス・キリストは、まことの預言者、まことの大祭司、まことの王です。

「キリスト」という言葉の元々の由来は、「油を注がれた者」です。旧約聖書で油注がれた者とは、預言者と祭司と王でした。それぞれ役割が違うのです。しかし、預言者と祭司と王の、ぜんぶの役割を1人で担った方がいらっしゃいます。イエスさまです。イエスさまは1人で預言者と祭司と王の役割の、すべてを成し遂げられました。イエスさまは本当の「油注がれた者」、本当のキリストなのです。

悪魔からの誘惑に、イエスさまは旧約聖書の言葉を使って答えて、悪魔に勝利なさいました。イエスさまは、「私は本当のキリストである」と伝えて、勝利されたのです。

 

皆さん、旧約聖書を読むときもイエスさまのことを考え、旧約聖書を読みながらもイエスさまを探してみましょう。聖書に書いてあるイエスさまのことが分かると、勝利されたイエスさまによって救われていることが、よく分かるようになります。王・大祭司・預言者である主イエスさまの恵みが、皆さんの上に豊かに注がれますように。