安息日学校部

第12課 聴覚しょうがい者用:伊藤裕史

2021年第2期「約束」(神の永遠の契約 

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第12課 契約の信仰 伊藤裕史

1.安息日午後

聖書は「 罪が支払う報酬は死です。」(ロマ 6:23)と言っています。私たちは今、罪のために苦しんでいますが、この私たちの苦しみは罪のための支払いになっているのでしょうか。私たちが苦しむことで支払うべきものが軽くなったりするのでしょうか。実は私たちの苦しみは罪のための支払いにはなっていません。どんなに苦しんでも、罪の支払いとは何のかかわりもないのです。今週私たちは、この罪の支払いについて、誰がどのように支払ったのかということについて学びます。

 

2.日曜日:カルバリーを思い描く

第10課で学んだように、旧約聖書の時代の人も、新約聖書の約束の中にいる私たちも、救われるのは信仰によってです。でも罪がどれだけ大変なものであるかを知らない人たちは、行いによって罪の支払いをしようとします。その人たちは、自分でよい行い、正しい行いをすることで罪の支払いができ、救われると思っています。自分はすばらしい行いをしたのだから、神様は救ってくれると考えているのです。

しかし、これは間違いです。私たちはよい行い、正しい行いによって救いを手に入れることはできません。そのことを知るためにキリストが十字架におかかりになったことを考えてください。なぜ神であったキリストは罪人として血を流されたのでしょうか。私たちはそのことを完全には理解できないのかもしれません。でも、十字架の場面を思うときに、罪がどれだけ大変なものなのか、そしてそこから救い出すためにどれだけ大きな犠牲が払われたかが分かってくるはずです。だから私たちの行いがどんなによくても、この罪の支払いはできないのです。

 

3.月曜日:契約と犠牲

では、どのように罪の支払いをするのでしょうか。聖書には「贖われた」という言葉があります。これはキリストの死によって支払いが行われ救われる、という意味です。聖書が「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(1ペトロ1:18,19)と言うように、「キリストの尊い血」によって罪の支払いが行われたのです。神であっても尊いみ子キリストの血でなければ支払えなかったのです。それしか方法がなかったのです。それほど罪は大きいものなのです。

しかし「キリストの尊い血」は罪の支払いだけのものではありませんでした。私たちに永遠の命を与えてくれるためでもあったのです。

 

4.火曜日:アブラハムの信仰:その1

罪の支払いを「キリストの尊い血」によってして下さったことを学びました。しかし、それで十分なのでしょうか。そうではありません。私たちがそれを受け入れ、認めなくてはいけないのです。「彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15:6〈新改訳〉)という聖句は、アブラハムが神のなさることを受け入れたこと。そしてアブラハムが受け入れたことを神が認めたことを示しています。はじめのアブラハムが受け入れたことはなんだったのでしょうか。それは神の約束が実現すること、自分にはそれを実現させる力がないこと、そして神が約束を実現させることに自分が従うことでした。

だから、アブラハムが認められたといっても、アブラハムが間違うことのない素晴らしい人だったのではありません。アブラハムは自分にはそれを実現させる力がない弱さを知っていました。だから、間違ったときには、それを認め、神のもとに帰り、何度もやり直したのです。神はそれを助けてくださるのです。

 

5.水曜日:アブラハムの信仰:その2

火曜日のところで、アブラハムが神のなさることを受け入れたこと、そしてアブラハムが受け入れたことを神が認めたことを学びました。では神が「認める」とはどういうことなのでしょうか。このヘブライ語の「認める」とは「…と見なす」「転嫁する」という意味をもっています。私たちが「キリストの尊い血」が流されたのは自分のためだということを受け入れた時、神は私たちの罪の支払いが「キリストの尊い血」によって支払われたと認めてくださったのです。つまり私たちの罪がキリストに転嫁され、罪の報酬がキリストによって支払われたものと見なしてくださったのです。このことによって神は、私たちが何も支払っていないにもかかわらず、支払ったものとあつかってくださるのです。

しかし注意しなくてはいけません。神は罪の支払いがすんだものと私たちを見てくださいますが、私たちは何も変わっていません。このままではまた神からはなれてしまうでしょう。私たちは「キリストの尊い血」という犠牲が払われたことを忘れてはいけません。そして、神に従っていかなくてはいけないのです。

 

6.木曜日:約束の上に憩う

「 罪が支払う報酬は死です」この支払いは私たちの命以外には「キリストの尊い血」のほかできません。あなたの苦しみも、よい行いもなんの意味もないのです。でもキリストはもうその支払いをすませた、あなたは救われていると言ってくださっているのです。皆さんはこの言葉を信じ、受け入れますか。受け入れるのであれば、救われたものとして歩んでいきましょう。神の守りのうちを歩み(詩34:8〈口語訳7節〉)、平和を得て(ロマ5:1)歩みましょう。そして救われたものとして、キリストと共に歩み(マタ11:30)、神に従っていきましょう(フィリ2:7,8)。

 

7.金曜日:さらなる研究

私たちが救いを手に入れる方法は、「キリストの尊い血」を信仰によって受け入れるしかありません。受け入れるとは、ただ心で信じること、同意することではありません。だからその後の歩みには「行い」がともないます。しかし、これは救われるためにではなく、救われたから行うのです。同じ「行い」であっても、救われるためか、救われたからかでは、まったくちがうのです。救われた喜びをもって「行う」ならば、皆さんは聖化(キリストに似たものと)されていくでしょう。この喜びの道をキリスト再臨の日までいっしょに歩んでいきましょう。