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第11課 新しい契約の聖所 寺内三一
1.安息日午後:今週のテーマ
今週は、聖所の目的と、聖所での罪人の救いのための犠牲と祭司の務めを学びます。
今週は次に、聖所には、古い契約である~旧約聖書の時代の地上の聖所と、新しい契約である~天の聖所の二つがある事を学びます。そして、地上の聖所が、本物(本体)である天の聖所の“影、型、本物の写し”である事を学びます。この「本物と、本物の影~型~写し(本物をあらかじめ示す~予表、予告)」は、聖書の中に多くあり、聖書の重要な真理を理解する助けとなるのです。
エデンの園で、アダムとエバが罪を犯した後に神様が与えた「皮の衣(皮の着物)」は、やがて来られる「救い主イエス様の十字架の救い」という本物(本体)の“影、型、写し、予告”でした。
ノアの洪水の、「水の裁き」は、本物(本体)である終末時代の罪を完全に滅ぼす「火の裁き」の“影、型、写し、予告”でした。「救いの箱舟を造る事」が、「天国に入るにふさわしい品性を作り上げる事(本体)」の“影、型、写し、予告”でした。ノアの洪水の、「水の裁きと、箱舟を造り箱舟に入る事による救い」は、すべての時代の人々の(特に最終時代の)「救いと罪の裁き」を指し示しているのです。ですから、必ずやって来る「神様の救いと裁きに備える事」を強く示すのです。
今週は、地上の聖所で罪人の罪のゆるしのために献げられた動物の血が、「人を救う~真の神の犠牲の子羊であるイエス様の十字架の死の犠牲」を表している事を学びます。さらに、罪ある人間の祭司の働きは、神であり人であり「神の御前で罪人を執り成す真の大祭司であるイエス様」を表している事を学ぶのです。このように、私達は(すべての人は)、神の子羊であり、真の大祭司であるイエス様によってのみ救われるのです。イエス様を正しく理解し、正しく信じる事が救いには必要なのです。
2.日曜日:関係
神様は、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を救い、エジプトから導き出しました。そして、彼らに、神様を愛し人を愛する幸いで祝福された信仰生活を送るために十戒を与えました。
さらに神様はモーセに、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(出エジプト25:8)と言われたのです。
このように、旧約聖書の聖所が建てられた第1の目的は、「神様と人が共に住むため」でした。
ガイドに「神はその民との愛のうちにある親しい関係を求めておいでだということです」とあります。愛の神様は、人との愛の交わりをさらに親密な関係にするために、聖所を建てさせ「彼らの中に住(んで)」下さるというのです。それは、イエス様が、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」(マタイ 1:23)という名前をもって地上に来られた事の先取りといえるのではないでしょうか。神様は、旧約聖書の時代に聖所に住まわれてイスラエルの民と共におられたのです。
そして、新約聖書の時代には、神様の御子のイエス様が天から降りて来て下さり、人と共に歩まれたのです。そして、今、イエス様は「わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録 3:20)と私達を招いて下さっています。私達は心にイエス様をお迎えして(心の内にイエス様に住んでいただいて)イエス様と心と心を通わせ、イエス様の心をもって、言葉をもって、行いをもって、イエス様の手として口として耳として足として「もう一人のキリスト」として「キリストの証人」として、イエス様と共に歩む祝福ある信仰生活を送っていきたいと思います。
3.月曜日:罪、犠牲、受容 (ヘブ 9:22)
旧約聖書の聖所が建てられた第2の目的は、「罪人の罪を(罪の意識を)取り除くため~人を罪から救うため」でした。罪を犯した人は、自分の罪の刑罰(最終的な刑罰の死)の身代わりとして動物を供え、動物が裁かれて死ぬのです。人間の罪が動物に移り、動物が人間の身代わりとして死ぬ事により、人間の罪が取り除かれ、罪が清められた状態と見なされ、罪を犯す前に回復するのです(罪がゆるされ、救われるのです)。これが、罪人の罪を取り除く天の手段でした。
しかし、「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができない」(へブル 10:4)とあるように、人間の罪の身代わりとしての動物の死(血)では、真に人間の罪を取り除く事は出来ません。
問4にあるように、人間の罪を取り除くための動物の犠牲制度には、預言的な意味がありました。動物の犠牲は、来るべき神であり人である神の僕~人間の罪の真の身代わりである神の子羊であり、真の救い主であるイエス様の到来を指し示しているのです。
4.火曜日:身代わり
問5の下に「身代わりは、救いの計画全体の鍵です。私たちの罪のために、私たちは死に値する者だからです」とあります。聖書の神様は、「罪を犯しても“ごめんなさい”と言えばゆるしてくれる」~「憐れみだけ、優しい愛だけの神様」ではありません。罪を罪と呼び、罪を見逃す事はなさらず、罪を裁く正義の神様、厳しい愛の神様でもあるのです。「憐れみと正義」、「優しい愛と厳しい愛」の両面をもつ神様なのです。ですから本当の神様なのです。聖書の神様は、罪をゆるすだけではなく、罪を犯した者の罪の裁きを(罪の支払う報酬である死を)求められるのです。罪を取り除くためには、罪の代価を払って罪を贖う事が必要なのです。イエス様は罪人を救うために~罪人の罪を取り除くために~自らが罪人の罪の身代わりとして罪の代価を払われ十字架について死なれたのです。
イエス様の身代わりの死によって、罪人の私達は罪の裁きを受ける事がなく罪が赦され救われるのです。イエス様ご自身が、罪人を~私達を愛するがゆえに、人の罪を取り除く真の「神の犠牲の子羊」となって死んで下さったゆえに私達は救われるのです。イエス様は「御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(ガラ 1:4)。ガイドの問5の下にあるように「救いはただ、血を通して、しかもキリストの血を通してのみもたらされるのです」。問6の下にあるようにイエス様は「世の罪(死ななければならない私の罪)を取り除く(身代わりの)傷のない神の子羊」なのです。イエス様は私達一人一人を救うために、神の御子の命を捨てる程に私達を愛して下さっているのです。私達はこれ程までに神様に、イエス様に愛されているのです。
5.水曜日:新しい契約の大祭司
罪人の罪を取り除き、罪人を救う地上の聖所に欠かせないのが、動物の犠牲と、祭司の務めでした。祭司は、犠牲の動物が殺された後に、罪人のためにその血をもって務めを行いました。
しかし、人間の罪の身代わりが動物の犠牲では不十分です。ですから、神の子羊として神の御子のイエス様の真の身代わりの犠牲が必要でした。また、聖なる神様と罪人を執り成す祭司の働きは、罪ある祭司では不十分です。罪ある者が罪ある者の罪を執り成す事は、厳密にはできない事です。
ですから、罪人を執り成して下さる罪のない御方であるイエス様が、私達の真の大祭司となる必要がありました。そして、真の大祭司としてイエス様は“本物の影、型、写し、予告”である旧約時代の地上の聖所ではなく、真の聖所である天の聖所で、今もその働きをしておられるのです。
この様に神の御子のイエス様は、罪人の罪の身代わりとしての犠牲の神の子羊となって十字架で死なれて血を流されただけではなく、神と罪人を執り成す真の大祭司となられたのです。
「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブライ 9:11,12)。
6.木曜日:天での奉仕 (へブ 9:24)
「なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(ヘブライ 9:24)。
イエス様が、「今、天でわたしたちのために神の御前に現れてくださっている」とはどういう意味でしょうか。
私達~罪人は聖なる神様の御前には出る事が出来ません。それなので、イエス様は私達のために父なる神様の御前に出て下さっているのです。イエス様は、地上で私達を救うために、私達の罪の身代わりとして十字架で死んで下さいました。そして復活され、地上での働きを終えて昇天されました。そして、今も私達のために天の聖所で働いておられるのです。神であり人であるイエス様が、天と地を~神様と人類を~神様と私達をつなぐ仲保者、架け橋となって下さっているのです。
イエス様は、私達が「イエス様の御名によって祈ります」と祈る日々の祈りをお聞きになるだけではなく、不十分な私達の祈りを、父なる神様の御前に立って執り成して下さっておられるのです。
また、神様の御前に立つことが出来ない不十分な私達に代わって、ご自身の完全な義をもって神様の御前に立って下さり、私達のために罪のゆるしと罪に打ち勝つ力とを願い求めておられるのです。
この様に、私達には「私達のために人となり、私達の罪の身代わりとして死んで下さり、今も天で、神様の御前で私達を執り成して下さり、やがて再臨され永遠の命の祝福を与えようとして下さるイエス様」がおられるのです。私達の救いと喜びと希望はイエス様にあるのです。本当に感謝です。
7.金曜日:さらなる研究
アダムとエバが罪を犯して失ったのは、アダムとエバが罪を犯す前に持っていた「神の命~永遠の命」でした。ですから、アダムとエバが(人類が、私達が)失った「神の命~永遠の命」を持つ神様の御子のイエス様の命でのみ、罪が贖われるのです。「この人による以外に救はない。」(使徒 4:12 口語訳)のです。神の御子であり、神様の命そのものであるイエス様以外に、人を、罪人の私達を救う御方はいないのです。イエス様の血でしか、大祭司のイエス様でしか私達は救われないのです。
ですから、私達は「イエス様は私の犠牲の神の子羊であり、真の大祭司であり、私を愛して救って下さる間違いのない救い主である」との信仰の告白をするのです。そして、この救い主イエス様による救いの喜びを証しするのです。キリストを指し示すご聖霊に満たされて「キリストの証人」として歩んで行くのです。
〈 話し合いのために 〉
皆さんは、「自分のために、犠牲を払ってくれた人」はいますか? 「この方の、この犠牲がなければ今の自分はない」という方がおられますか? どんな愛の犠牲でしたでしょうか?
また、「自分のために、執り成しをしてくれた人」はいますか? 「この方の、この様な執り成しがなければ、今の自分はない」という方がおられますか? それはどんな状況の執り成しでしたか?
では、あなたは「誰かのために、犠牲を払った事はありますか? 誰かのために、執り成しをしたことはありますか?」
誰かに犠牲を払ってもらったように、誰かのために犠牲を払いましたか?
誰かに執り成しをしてもらったように、誰かのために執り成しをしましたか?
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。
それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(ヨハネ第1、3:16)
あなたは、自分を救うためにイエス様が神の命を捨てて下さった愛にどのようにお応えしていますか? イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ 13:34)と言われました。「イエス様に愛されたように、互いに愛し合う」とは、どの様に思い、どの様に話し、どの様に行う事なのでしょうか?