安息日学校部

第10課 聴覚しょうがい者用 柴田 寛

2022年第1期「終わりの時代に生きる」

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第10課 垂れ幕を通って道を開かれるイエス 柴田 寛

 

1.安息日午後:今週のテーマ

イエス様が天に帰って行かれるのを見上げていた弟子たちの顔が、パアッと明るくなったのを想像してみて下さい。それは涙のお別れではなく、期待と喜びに満ちていました。なぜでしょう。イエス様が、ある大切な仕事を成し遂げたら、必ず戻ってくると約束して下さったからです。その約束は、心から信じることのできるものでした。なぜなら、イエス様の十字架に、弟子たちだけでなく、私たちすべての人々への、あふれる愛を見たからです。イエス様は必ず使命をなしとげ、約束を守って下さる。そう心から信じることができたから、弟子たちは悲しくありませんでした。嬉しくて、その日が待ち遠しくてしかたなかったのです。

 

2.日曜日:父なる神の御前に出るイエス

イエス様は、何のために天に帰られたのでしょうか。それは、私たちの代わりに「神の御前に出るため」でした。神様はその昔、ソロモン王にこう言われました。「もし・・・わたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす」(歴代志下7:14)と。これは、「もし、あなたが悔い改めて、私(神様)の御前に来るなら、その罪を赦してあげよう」という意味です。しかし、そのすぐ後の19節で、こういう意味のことも言われました。「もし、私(神様)に背を向けて、私(神様)を捨てるなら、あなたたち(イスラエルの民)を滅ぼす」。結果はどうだったでしょうか? イスラエルの民は、真の神様に背を向けたので、国も民族も、一部の人たちだけを残して滅んでしまいました。イエス様の時代に生きていたユダヤ人たちは、この先祖たちの失敗を残念に思いながらも、自分たちも同じ失敗を繰り返してしまうので、失意の中にありました。でもそこにイエス様が現れて下さったのです。そして、そのイエス様が失敗の多い私たちに代わり、天の神様に赦しを請うために、天に帰っていかれたのです。不可能と思っていたところに、希望の光が差し込んだのです。

 

3.月曜日:神の招き

イスラエルの人々がエジプトを脱出して三ヶ月ほど経った時、人々はシナイ山のふもとに来ました。神様はここで、イスラエルの人々と交わりたいと思われ、ご自分がどのような神であるかを、大きな音や風、炎などを通して示されました。これは、イスラエルの人々が、天地万物の創造者である神様と会うにあたり、心の備えをするためでしたが、結局、人々は恐れの方が上回り、神の御前に進み出ることができませんでした。

しかし、後に70人の長老たちが、モーセやアロンとともにシナイ山を登り、神様とお会いし、神様の御前で食事までしています(出エジプト24:9)。これはとてもめずらしい場面ですが、70人の長老が、モーセに率いられて神の御前に行ったように、私たちもイエス様のあとに従うなら、近い将来、同じ祝福にあずかることができるということを教えています。天の神様は、私たちから遠く離れているのではなく、私たちを招き、私たちと親しく交わりたいと願っておられるのです。嬉しいですね。

 

4.火曜日:幕の必要

聖所には重要な「幕」がありました。それは、神様の神聖な領域と、そうでない領域を隔てる「幕」でした。この「幕」には、神様の領域に不用意に近づこうとする者を、その当然の結果である「死」から守る役目がありました。しかし、その「幕」は、神様と我々人間との間を永久に隔てる絶望の「幕」ではなく、「幕」さえあれば、神様が私たちのすぐそばに住まわれることを可能とするものでした。

イエス・キリストは、まさにその「幕」の役割を果たして下さいました。イエス様が父なる神様と私たちとの間に立って下さったので、分断されていた両者が近づき、神様について知り、栄光を垣間見ることが可能となったのです。

 

5.水曜日:幕を通って入る新しい生きた道

「神殿の幕が見ることのできない全能者の手によって二つに裂かれた時、新しい命の道が開かれた。今やすべての者が、キリストの功績を通して神に近づくことができる。・・・人々は、祭司や個人的な犠牲に頼る必要はない。すべての人々に、個人的な救い主を通して、神に直接に近づく自由が与えられている。」(原稿148.1897年)

「新しい生きた道」とは、イエス様が神の御座を捨てて人としてこの世に来て下さり、バプテスマ、十字架、復活、そして昇天(天の聖所へ帰る)を経て開通させてくださった、「新しい命の道」です。これは、「神との交わりに人類を回復する神の、長くたゆまぬ努力における決定的な幕開けでした。」(副読本71ページより引用)

ここに、想像を絶する神様の深い愛が現れています。だから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ10:22)とパウロは呼びかけているのです。

 

6.木曜日:彼らは主の御顔を見る

ヘブライ12:22~24には、キリストを信じる者は、「シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム」が近づいたと表現されています。このことが実際に私たちの上に実現するのは、まだ先のことですが、すでに私たちの代表者であるイエス様が到達しておられるので、これは確実に保証されている出来事です。痛みや苦しみの絶えない世界にあって、この保証は「魂にとって頼りになる、安定した錨」(ヘブライ6:19)となり、私たちを支えます。

キリストが成し遂げて下さったことの一つひとつを、繰り返し瞑想しましょう。イエス様は、私たちが永遠に住むことのできる場所を用意しに行くと言って天に昇っていかれました。その約束の実現が、間近に迫っています。ですから、「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えて」(ヘブル12:28)まいりましょう!

 

7.金曜日:さらなる研究

ここに引用されている「患難から栄光へ」の文章は、読む私たちにさらなる希望を与えてくれます。ペンテコステの聖霊降下の出来事は、天において神のご計画が次の段階に進んだことを知らせる「通報であった」と言うのです。これは大変興味深い記事です。十字架を耐え忍び、復活、昇天されたキリストが「あがない主」として就任された・・・・。これは、イエス様が名実ともに、いよいよキリスト(救世主)となられ、真の大祭司として最後の務めに就かれた、ということでもあります。この着実な進展は、決して覆されることのない、大勝利を約束するものです。黙示録にはその結果である、大群衆による讃美の様子が記されています。

「・・・見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。』」(黙示録7:9、10)

ハレルヤ。キリストが勝利者として凱旋される日は、まもなくです。楽しみですね!!

 

【話し合いのための質問】

救いの「見込み」から「保証」へ、救いへの「熱望」から「確信」へ、どうしたら移っていくことができるでしょうか?

また、まだ「保証」や「確信」がもてないという友人に、どのようにしたら、それを伝えることができるでしょうか? クラスで話し合ってみましょう。