安息日学校部

第1課 聴覚しょうがい者用:眞田 治

2021年第3期「キリストにある休み」 

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第1課 1日24時間、週7日社会に生きる 眞田 治

1.安息日午後

主イエスさまは「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ福音書11章28節)と言っておられます。主イエスさまのもとに行って休むのは、2000年前の人々だけではありません。今の時代を生きている私たちも、主イエスさまを信じて、私たちが心の中で思っていることを正直に主イエスさまにお伝えし、主イエスさまと一緒に私たちも休むことができます。

今期、7月・8月・9月の3ヶ月間、「キリストにある休み」を体験しましょう。主イエス・キリストさまによって休ませていただく喜びを、体験させていただきましょう。

 

2.日曜日:疲れて弱って

旧約聖書の創世記2章1~3節を読みましょう。

「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

創世記2章1~3節は、天地万物の創造が神さまによって完成された直後のことで、まだだれも疲れていない前のことです。まだだれも疲れていないのに安息して休む日が神さまによって聖別されたのは、どうしてでしょうか?

旧約聖書の出エジプト記20章11節を読みましょう。

「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

まだだれも疲れていないのに安息して休む日が主なる神によって聖別されたのは、どうしてでしょうか?

六日の間に主が天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたことを私たち人間が忘れないために、主は安息日を祝福して聖別されたのです。私たちが疲れていても疲れていなくても、神さまは私たちと一緒に休んでくださいます。私たちが疲れて弱っているから安息日が必要なのではありません。神さまのことを忘れないために、私たちには安息日の休みが必要なのです。創造主であり救い主である神さまを忘れないために、私たちは安息日を聖別して守ります。

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ福音書2章27節)と主イエスさまは言っておられます。あなた自身が神さまを知り、他の方々にも神さまのことを伝えるために、安息日は聖別されているのです。

 

3.月曜日:空になっても走り続ける

太宰治という小説家を知っておられますか。『走れメロス』とか『富嶽百景』とかの作品が有名ですね。

太宰治が書いた小説の中で、最も多く引用されている聖書の御言葉は、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ福音書22章39節)なのだそうです。隣人を愛する。自分自身のように隣人を愛する。どうやって隣人を愛するのか。そして、どうやって自分自身を愛するのか。太宰治は自分を愛し隣人を愛することについて悩み、小説の登場人物によっても自分を愛し隣人を愛する悩みを表現したのです。「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっていると言ってもいいのである」(『如是我聞』1948年)とも太宰治は書いています。

隣人を愛することについて悩んだ太宰治は何度も自殺未遂を繰り返し、ついに本当に自ら命を絶ってしまいます。自殺の直前の約1年間には、自分を愛し隣人を愛することと自殺の関係についても書いています。

聖書を真剣に読み、聖書の教えを真剣に守ろうとした太宰治なのに、どうして自殺してしまったのでしょう。理由は多分、主イエスさまの御言葉の半分だけに興味を持って、残りの半分には興味を持たなかったからです。

主イエスさまは語っておられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ福音書22章37~40節)。

「隣人を自分のように愛しなさい」については小説や随筆で何度も引用している太宰治ですが、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」について、じつは一度も引用していないのです。隣人を愛することについて悩み続けた太宰治は、隣人を愛する愛が神さまから与えられることに気がついていなかったのかも知れません。神さまからの愛を受け取らないで隣人を愛そうとし続けるなら、自分が空っぽになります。外から入って来る愛がないのに中から出て行く愛ばかりが多いと、自分が空っぽになってしまうのです。

空っぽになっても走り続けようとする人々に、神さまは「休みなさい」と言われます。主イエスさまと一緒に休み、「キリストにある休み」を体験し、神さまによって愛されるために、私たちには休みが必要です。「自分は空っぽだな」と思っている方々は、神さまから愛されていることがもっとよく分かるようになるために、少し長めの休みを取ってみてはいかがでしょうか。隣人を愛することを少し忘れて、神さまから愛されていることに専念することも、私たちには必要なのです。

 

4.火曜日:旧約聖書における休みの定義

旧約聖書に書いてある「休み」という言葉には、いろいろな意味があります。「仕事をやめる」、「休暇を取る」、「安心している」、「静かにしている」、「平和」、「平安を与える」、「眠る」などです。

「休み」という言葉にはいろいろな意味があるように、休むことは、いろいろなことに必要です。休みは、私たちの健康や人間関係を守るために必要なものです。そして休みは、私たちの感情を守るためにも必要なのです。

これからの3ヶ月間の「キリストにある休み」の学びで、キリストを信じて休むことの安心を身につけましょう。

質問します。

あなたは休みの日や休みの時間に、なにをするのが一番お好きですか? 好きなことを書いてください。

あなたは休みの日や休みの時間に、なにを考えるのが一番お好きですか? 好きなことを書いてください。

あなたは休みの日や休みの時間に、だれと一緒にいるのが一番お好きですか? 一緒にいたい人を書いてください。

 

5.水曜日:新約聖書における休み

マルコ福音書6章30~32節を読みましょう。

「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。」

マルコ福音書6章31節で主イエスさまが「しばらく休むがよい」と言われた「休む」は、「リラックスする」とか「元気づける」とかの意味です。しかし、舟に乗って自分たちだけで人里離れた所へ行った弟子たちは、リラックスすることができませんでした。すぐ後の、マルコ福音書6章33~44節を読みましょう。

「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。』これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。弟子たちは、『わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った。イエスは言われた。『パンは幾つあるのか。見て来なさい。』弟子たちは確かめて来て、言った。『五つあります。それに魚が二匹です。』そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。」

男だけで五千人もの人々に、弟子たちはパンを配ることになりました。だから弟子たちは、忙しくなりリラックスできなかったのです。

主イエスさまが「しばらく休むがよい」と言われたので、弟子たちは自分たちだけで人里離れた所へ行ったのです。しかし大勢の群衆が駆けつけてきたので、弟子たちは休むことができず、リラックスできませんでした。どうしてでしょうか? 主イエスさまが言われたとおり人里離れた所へ行ったのに、主イエスさまが言われたとおり休むことができなかったのは、どうしてでしょう?

じつは、主イエスさまが弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われた本当の目的は、神さまのことを弟子たちが思い出すためだったのです。

マルコ福音書6章30節には、「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」と書いてあります。使徒たちというのは主イエスさまの十二人の弟子たちのことです。十二弟子たちは伝道旅行から帰ってきて、自分たちや行ったことや教えたことを主イエスさまに報告しました。神さまの恵みに満ちた権威ある御業を主イエスさまに報告したのではありません。弟子たちは自分たちのことを報告しました。弟子たちは神さまのことを忘れて自分たちのことばかりを考えていたので、神さまのことではなく自分たちのことを報告したのです。だから主イエスさまは、弟子たちが神さまを思い出せるように「しばらく休むがよい」と言われました。そして、少しのパンを増やして大勢の群衆が食べて満腹できる神さまの奇跡を見せることによって、神さまのことを弟子たちに気づかせたのです。なにもしない休みではなく、パンの出来事を見て神さまへの信仰を新たにする休みが、弟子たちには必要だったのです。主イエスさまが弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われた本当の目的は、神さまのことを弟子たちが思い出すためでした。

私たちが休んだりリラックスしたりする本当の目的も、私たちが神さまを思い出すことです。神さまの恵みに満ちた権威によって御業が進められることを私たちが忘れないために、私たちには休みが必要です。

 

6.木曜日:休みなくさすらう者

火曜日の最後に、質問をいたしました。

あなたは休みの日や休みの時間に、なにをするのが一番お好きですか?

あなたは休みの日や休みの時間に、なにを考えるのが一番お好きですか?

あなたは休みの日や休みの時間に、だれと一緒にいるのが一番お好きですか?

もしも主イエスさまのことを忘れている方がいらっしゃいましたら、今、思い出しましょう。水曜日に読みましたように、私たちが休んだりリラックスしたりする本当の目的は、私たちが神さまを思い出すことです。

木曜日のタイトルである「休みなくさすらう者」というのは、神さまの恵みに満ちた権威に頼らないで自分の力に頼っている人のことです。「さすらう者」というのは、落ち着きがなくて、うろうろ動き回る人のことです。ご自分の気持ちが落ち着かないと感じている方は、聖書を読んでお祈りするための休みを取りましょう。体は動き回っているけど心が空っぽだなと感じている方は、1時間ごとに1分間ずつ、主イエスさまのことを考えましょう。朝9時から9時1分までの1分間、10時から10時1分までの1分間、11時から11時1分までの1分間、起きている間は1時間ごとに1分間ずつ、主イエスさまのことを考えるのです。「さすらう者」から「信仰の人」へ、神さまによって私たちを造り変えていただきたいと思います。全知全能の神さまが私たちひとりひとりを豊かに祝福してくださると信じます。

 

7.金曜日:さらなる研究

コロナの時代になりました。たくさんの人数が集まることが難しい時代です。イベントを開くことも難しくなりました。

しかし私は、コロナの時代になった後、コロナの時代になる前よりも、伝道が楽しくなりました。

たくさんの人数を集めることを考えなくなりました。イベントの企画を考えなくなりました。人数やイベントではなく、ひとりひとりとの出会いを大切にすることが、以前よりもできるようになりました。たくさんの人数が集まる集会は休みです。イベントも休みです。休むことは神さまの恵みだと私は思います。人数やイベントに頼るのではなく神さまの権威に頼って伝道できるようになります。神さまがひとりひとりを救ってくださいます。神さま御自身がおひとりおひとりの人を救ってくださる出来事を私たちが見せていただくために、私たちは休まなければなりません。以前は当たり前だと思い込んでいた人間の常識を止めて、休みましょう。そして、神さまの常識を教えていただけるように、心を静かにしましょう。

『各時代の希望』という本の中巻99ページに、次のように書いてあります(『希望への光』857ページ)。

「人々は、活動が増し、神のためのどんな働きにも成功するようになると、人間的な計画や方法にたよる危険がある。…われわれは、失われた者の救いのために熱心に働く一方では、瞑想と祈りと神のみことばの研究に時間をとらねばならない。多くの祈りによってなしとげられ、キリストの功績によってきよめられた働きだけが、善に対して力のあるものであったことが最後にわかるであろう」。

「キリストにある休み」。

2021年7月・8月・9月が、祝福に満ちた1日1日になりますよう、お祈りいたします。