安息日学校部

第11課 聴覚しょうがい者用:寺内三一

2020年第2期「聖書をいかに解釈するか」(神の言葉の理解の仕方) 

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第11課 聖書と預言 寺内三一

 

1.安息日午後:今週のテーマ

聖書の神様には特徴があります。天地万物を創造される神様、罪人を救う愛の神様、歴史を支配なさる神様、永遠の存在である神様、そして、将来の出来事を人間に「預言される」神様です。
聖書は重要です。それは私達のアイデンティティー(自己認識~自分が何者なのか)を教えてくれるからです。また聖書の預言も重要です。それは、預言により将来を知る事によって~将来の備えのために今何をしたら良いかという~自分の生き方(使命~命の使い方)が明確になるからです。

また、預言の重要さは、聖書に預言された事が、その通りに起こった時(預言が成就した時)に、預言を与えた神様を信じるようになるためです。信じる者は永遠の命を受ける事ができるのです。
そのために大切なのは、預言を正しく解釈する事です。間違った解釈をしてしまうと、間違った生き方をしてしまいます。聖書の正しい解釈が、私達の人生だけでなく永遠の命をも左右するのです。

聖書の預言の解釈には過去主義、未来主義、理想主義、歴史主義などの解釈があります。宗教改革の時代の改革者たち(カトリック教会に抗議〈プロテスト〉をしたのでプロテスタントと呼ばれた人々)は、歴史主義の立場をとっていました(SDA教会もその立場です)。それは、聖書の中のダニエルや黙示録を書いたヨハネと同じ手法です。歴史主義者の手法は、過去の歴史が現在に継続してつながっている事を認めて、さらに将来にも漸進的に(少しずつ進んでいく)という理解をしています。

今週は、歴史主義者の預言解釈の中でも特に重要な点を学びます。そして、歴史の中に神様の預言が確かに成就している事と、SDA教会の先人達の再臨運動の中に働いた神の摂理を学びます。
そして、私達が、キリストの再臨という希望の時が近づいている時代~罪の世の終わりの裁きの時が近づいているという厳粛な時代~を生きている事を学びます。

 

2.日曜日:歴史主義と預言

SDA教会が預言に用いる基本的手法は歴史主義と呼ばれるものです。それは、聖書の主要な預言の多くが、歴史の切れ目のない直線的な流れを~過去から現在~現在から未来へたどっているという考えです。聖書そのものが歴史主義の手法で預言を解釈しているのです。

問1に、歴史主義の聖書の例としてダニエル書2章のネブカドネツァル王の巨像の夢が書かれています。ダニエルが神様から示された巨像の夢の解釈は、金の頭(第1の国)は、ネブカドネツァル王のバビロニア王国(都はバビロン)です。次の第2の国は、銀の胸と腕(メディアとペルシャ)です。第3の国は、青銅の腹ともも(ギリシャ)です。第4の国は、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でできています(ローマ帝国・異教ローマ)。これらの国々は巨像の体の頭からつま先までの各部分で表されて、連続してつながっているのです。
ダニエル書7章と8章では、2章の4つの連続した国が特定の獣の象徴であらわされ、次々と途切れずに続いています。それらは、現在の私達にとっては、大昔に始まり、現在に、そして未来のキリストの再臨と神様の永遠の王国へとつながっていきます。

問2に、イエス様は「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」(ヨハネ 14:29)と言われました。預言の機能(働き)は、預言がその通りに成就する事で、預言を語ったイエス様を信じるようになるためなのです。

 

3.月曜日:1日=1年の原則

歴史主義の解釈の鍵の一つは「1日=1年の原則」です。多くの人がこの原則をダニエル書や黙示録の「時間に関する預言」に適用してきました。その根拠となる聖句は民数記14:34です。「あの土地を偵察した四十日という日に応じて、一日を一年とする四十年間、お前たちの罪を負わねばならない。」この言葉の通りにイスラエルの民はその後40年間荒野をさまよいました。

時間の預言に「1日=1年の原則」を用いる正当性を説明するための3つの要素があります。

第1の要素は象徴の使用です。獣や角を象徴的に用いて国をあらわしていますので、時間の表現も象徴的に理解されるべきだからです。
第2の要素は長い期間になる事です。預言の出来事や国々の多くは何世紀もの長期間になります。預言を文字通りの日数ではなく「1日=1年の原則」を適用すると正確に時が当てはまります。
第3の要素は特別な表現です。預言の期間を示す特別な表現が用いられている場合は象徴的な解釈と考えられます。例えばダニエル書8:14の「日が暮れ、夜の明けること二千三百回」は通常の2300日と違う特別な表現をしているので、期間も象徴的に解釈して2300年と理解すべきです。

ダニエル書9:24~27の70週の預言では「油注がれた君(救い主キリスト)の到来まで七週あり、また六十二週あって」と書かれていて、文字通りだと、7週と62週を合わせて69週(483日:1年4か月と1週間)と理解しようとするとこの預言は意味をなしません。70週の490日を490年とすると、救い主キリストの到来(初臨)と十字架の時がきわめて正確に当てはまるのです。

 

4.火曜日:小さな角の正体を明らかにする

プロテスタントの改革者達は(SDA教会も)ダニエル書7章8章の第4の獣から生じる小さな角の勢力をローマカトリック教会とみなしてきました。理由は共通する7つの特徴があるからです。7つとは、いずれも~①角と呼ばれ~②迫害する勢力~③高慢で冒涜的~④神の民を標的にする~⑤その活動が預言され~⑥時の終わりまで存在する~⑦超自然的な形で滅ぼされる~この7つです。
このダニエル書7章の小さな角は、第4の獣から生じて、第4の獣の一部としてあり続けます。異教ローマ(ローマ帝国)から出てきて、少なくとも1260年間、その政治的宗教的影響を与え続けた勢力は、教皇制ローマ(ローマ・カトリック教会)です。その理由が4つあります。

第1に、「十人の王と異なり」(ダニエル7:24)とあるようにヨーロッパの10部族の中で独自性がありました。第2に、「いと高き方に敵対して語り」(同7:25)とあるように、イエス様の役割を奪いそれを教皇に置き換えました。第3に、「いと高き方の聖者ら」(同7:25)を迫害しました。第4に、安息日を日曜日に変える事によって「時と法を変えようと」(同7:25)しました。

 

5.水曜日:調査審判

今週のこれまでの預言の解釈は、1500年代からの宗教改革以来のプロテスタントの歴史主義者達に支持されてきました。SDA教会が強調している、2300日と調査審判(再臨前審判)の預言が深く研究されたのは、1800年代初めの再臨運動からでした。
小さな角(ローマ・カトリック教会)の中世の時代の神の民への迫害期間は1260年間で、教皇権の確立(538年)から、教皇が逮捕、投獄された1798年までです。その後、ダニエル7章と8章には裁きがあると書かれています(裁き主が席に着き ダニエル 7:10)。これは、1798年のあとで、再臨の前に天で行われる裁きです。

この再臨前の裁き(調査審判・再臨前審判)は、ダニエル8:14の聖所の清めと同じ事を語っています。この再臨前の裁き~聖所の清めはいつ始まるのでしょうか。それは「日が暮れ、夜の明けること二千三百回」とあるように2300日後で(1日=1年の原則で)2300年後です。
2300年の起点は、ダニエル7:24(70週の預言)に見いだされます。多くの学者は、2300年の預言と70週の預言を一つの預言の二つの部分であると理解しています。ダニエル9:25にこの期間の始まりが「エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから」であると書かれています。
エルサレム復興と再建の言葉は、アルタクセルクセス王の第7年(エズラ記7:7)で紀元前457年です。そこから2300年後は、1844年になります。
その時、イエス様は天の聖所に入られ、真の大祭司としての執り成しの働き、つまり天の聖所の清めを始められたのです。この裁き(調査審判・再臨前審判)が終わると、再臨があるのです。
それがいつ終わるか、いつ再臨があるかは分かりません。その意味で、私達は日々厳粛な時を過ごしているのです。

 

6.木曜日:預言としての予型論(特別なルール)

聖書に予型論があります。それは未来に起こる大きな事実を示すために、その出来事の前に予告として起きる出来事があるのです。予型(予告・影)があって、対型(原型・本体)があるのです。

問6に、旧約時代の出エジプトの時に神の御心に適わなかった人々が滅ぼされたのは、後の時代の人々を戒める前例(警告)として起こったというのです。
問7に、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子(イエス様)も三日三晩、大地の中(墓の中)にいる」(マタイ12:14)と、イエス様ご自身が、ヨナの経験と関連させ、ご自身が十字架後に墓の中におられる事を預言しました。
レビ記16章の、一年に一度の大祭司による地上の聖所の(罪の)清めの贖罪日と、へブライ9章の、真の大祭司としてのイエス様の聖所の清めは、地上の聖所の清めが予型(予告・影)であり、天の聖所の清めが対型(原型・本体)である事を示しています。いずれの場合も、イエス様も聖書記者も、予型と対型を適用して、預言の重要性と確実性を際立たせています。

 

7.金曜日:さらなる研究

ガイドには、ダニエル書7章と8章の対応表があります。これにダニエル書2章の巨像の国を加えて対応させると(金の頭がバビロン、銀の胸と腕がメディアとペルシャ、青銅の腹とももがギリシャ、鉄と陶土のすねと足がローマ)~まさに「三重の預言」となり、さらに聖書の預言の確かさが確認できます。三度書かれているという事は、重要であり確実である事を強調しているからです。神様が、三度も伝える程にこの預言は重要です。私達人間の一人一人が永遠の命に救われるか、もしくは裁かれて滅びるかの問題だからです。私達一人一人を罪から救うために、永遠の命の祝福を与えて下さるために、人となって下さり、十字架で命を投げ出して下さり、今現在~天の聖所で真の大祭司として執り成して下さっておられるイエス様を日々思い浮かべて歩んでいきたいと思います。イエス様の再臨を待ち望むアドベンチスト(再臨信徒)として歩んでいきたいと思います。

神様、イエス様の救いと助けと導きを喜び感謝しつつ、神様イエス様に喜ばれる者として、隣人に喜ばれる者として、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する者として歩んでいきたいと思います。