安息日学校部

第9課 聴覚しょうがい者用:藤田昌孝

2021年第1期「イザヤ」(わが民を慰めよ 

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第9課 仕えること、救うこと 藤田昌孝

1.安息日午後

今週は主に、イザヤ書に預言されている救い主、イエス様のお働きについて学びます。ただし、木曜日には、ペルシアの王キュロスの働きについてもふれます。彼はユダヤ民族をバビロンからエルサレムに帰し、神殿の建て直しの命令を出しました。

 

2.日曜日:僕である民族(イザヤ41章)

ここでは、イザヤ書に出てくる、2種類の「神の僕」について学びます。それは、ユダヤ民族とイエス様です。

日曜日では、イザヤ書41:8に出てくる「神の僕」について解説されています。

「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。」(イザヤ41:8)

ここに出てくる「わたしの僕」はユダヤ民族を表しています。

では、彼らは「神の僕」としてどのような働きをまかせられたのでしょうか?

それは、まことの神様をお伝えすることでした。

「人を救うことのできるお方は、唯一の神様だけだ」ということを、表すことがユダヤ民族の役割でした。

イザヤ41:14では、ユダヤ民族は、「虫けら」と呼ばれています。

それは、「ユダヤ民族が思いあがることがないように」との思いが神様にあったのだと思います。

 

3.月曜日:名前のない主の僕(イザヤ42:1~7)

イザヤ42:1に出てくる「神の僕」はイエス様のことです。

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」(イザヤ42:1)

イザヤ42:1~7を読むと、そこにはイエス様の特徴が描かれています。

1.イエス様は「何が正しく、何が間違いか」を明らかにしました。創造主なる神様の正義と愛を証明します。

2.その働きは静かに、穏やかに、行われます。大声を出したり、権力を使ったりはしません。

3.イエス様は人々に神の国と神の義をていねいに、お教えになりました。

4.イエス様は、人々に救いを与えられました。

5.病人をいやされることによって、人がやがて罪のない完全な状態に回復されることを示されました。

 

4.火曜日:ペルシアの「メシア」(イザヤ44:26~45:6)

火曜日には、ペルシアの王キュロスが、ユダヤ民族をバビロンからエルサレムに帰し、神殿の建て直しの命令を出すことについての預言が扱われています。

「僕の言葉を成就させ/使者の計画を実現させる。エルサレムに向かって、人が住み着く、と言い/ユダの町々に向かって、再建される、と言う。わたしは廃虚を再び興す。」(イザヤ44:26)

「深い水の底に向かって、乾け、と言い/お前の大河をわたしは干上がらせる、と言う。」(同44:27)

「キュロスに向かって、わたしの牧者/わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い/神殿には基が置かれる、と言う。」(同44:28)

この預言は、それから1世紀半たって、その通りになりました。キュロスは、バビロンの都を流れるユーフラテス川の水を減らして城壁の中に侵入しました。

そして、キュロス王は、バビロンの捕虜となっていたユダヤ民族をエルサレムに帰しました。神様がキュロスに働きかけ、そのようにさせたのです。

 

5.水曜日:将来への希望

イザヤの預言があまりにも、その通りになったので、ある聖書学者たちは、次のように考えました。

「イザヤ書40章から66章は、後の時代に別の人が書いたにちがいない。キュロスがバビロンを滅ぼされてから書いたのだろう。」

しかし、その考えを証拠立てるものは、何もありません。

水曜日の後半には、神様を信じる者が1人でもいるなら、神様は必ず守られるという約束が書かれています。

レビ記26:40~45です。

「それにもかかわらず、彼らが敵の国にいる間も、わたしは彼らを捨てず、退けず、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らと結んだわたしの契約を破らない。わたしは彼らの神、主だからである。」(レビ記26:44)

神様は、私たちがたとえ罪を犯したり、失敗したりしても、悔い改めるならば、必ず救い出してくださいます。

 

6.木曜日:苦難を味わう「僕」(イザ49:1~12)

イザヤ書49:1~12にある「神の僕」もまたイエス様を表しています。ただし、ここでは、イエス様が地上で味わわれた苦しみが描かれています。

「わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、」(イザヤ49:4)

「イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ」(同49:7)

とある通りです。

イエス様は、世の富や権力、華やかさの中で、神様を表すことをされませんでした。かえって、苦しみと侮辱に耐えて、神様の愛と正義を表されました。

さらに、イザヤ49:3では、イエス様は「イスラエル」と呼ばれています。なぜでしょうか?

イエス様はわたくしたち人類の身代わりになられたことを意味するからです。

イエス様は、わたくしたちが、やがて受けなければならない終わりの刑罰を、身代わりに受けてくださいました。それによって、わたくしたちは、刑をまぬがれ、永遠の命を得ることができるのです。