安息日学校部

第9課 聴覚しょうがい者用 吉村 忍

2022年第4期「永遠の命-死の起源、死すべき者、未来の希望

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第9課  矛盾する聖句? 吉村 忍

 

1.安息日午後

テモテへの手紙二3:14に、「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。」と記されています。神様は、私たちが聖書の真理を学んで確信を持ち、その真理から離れずにとどまることを願っておられます。同時に、私たちにはもう一つ勧められていることがあります。ペトロの手紙一3:15にそのことが記されています。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」

私たちは、聖書から真理を学んで確信を抱いて信仰生活を送ると同時に、私たちが信じている聖書の真理について説明を求める人に真理を語れるように備えておくことも大切です。

神様は、私たちが聖書の真理を説明する際に心に留めておくべきことをペトロの手紙一3:16で、次のように教えてくださっています。「それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。」

今週は、人々が霊魂の無条件の不死を正当化するために用いる、いくつかの聖句から学んでいきたいと思います。

 

2.日曜日:金持ちとラザロ

ルカによる福音書16:19~31に記されています「金持ちとラザロ」のたとえを死後の世界の描写として字義通りに理解しますと、多くの聖書の御言葉と矛盾します。もし、このたとえが死後の状態をあらわしている内容だとしたら、その場合、救われた者が自分の愛する者の苦しむ姿を見て、どうして幸せでいることができるでしょうか。そのように考えますと、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21:4)との聖書の約束と全く調和しないことになります。

「金持ちとラザロ」のたとえは、私たちに次のようなことを教えています。

① 神様を信頼しなかった金持ちと、神様に信頼した貧しい人とを対照的に描いています。

② 聖書は、人が救われるのはキリストを通してである。と教えていますが、このたとえでは、金持ちは神様に祈らず、アブラハムに祈りました(ルカ16:24)。金持ちは神様よりアブラハムを上に置いていました。

③ 人間が、死後に魂の救いを得ることは不可能です。

「キリストは、人々が第二の恩恵期間を望んでもむだであることをお示しになった。この世は、永遠のために備えをするために、人々に与えられた唯一の時期である。」(『キリストの実物教訓』239ページ エレン・G・ホワイト)

「キリストは、金持ちとラザロのたとえをお語りになって、人々が自己の永遠の運命を決定するのはこの世の生涯においてであることをお示しになった。・・・自分の選択によって、彼らは自分たちと神との間に越えることのできない淵をつくってしまうのである。」(『キリストの実物教訓』235ページ エレン・G・ホワイト)

 

3.月曜日:「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

聖書の中で霊魂不滅を証明するために最も広く用いられている聖書の箇所の一つが、ルカによる福音書23:43の「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」の聖句です。

この翻訳を読むと、イエス・キリストと強盗が亡くなったその日に天国に行くという印象を与えます。イエス・キリストと強盗が同じ日に天国に行ったとする考えは、復活後にマグダラのマリアに語られたイエス・キリストの御言葉(ヨハネ20:17)と矛盾します。イエス・キリストは、ヨハネによる福音書20:17で「・・・まだ父のもとへ上っていないのだから。・・・わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と話されました。また、その日に天に行ったとする誤りは、イエス・キリストが弟子たちに語られた再臨の時にのみ天に上げられる(ヨハネ14:1~3)というイエス・キリストの約束とも矛盾します。

ルカによる福音書23:43の問題点は、「今日」(ギリシャ語で「セーメロン」)という副詞が、後に続く「楽園にいる」にかかるのか、先行する「言っておく」にかかるのかです。「今日」という副詞は、「言っておく」にかかりますので、この聖句は「今日、はっきり言っておくが、あなたは私と一緒に楽園にいる。」となります。イエス・キリストは、強盗に救われることを約束なさいました。

 

4.火曜日:この世を去ってキリストと共に

パウロは、今「キリストに結ばれ」(2コリント5:17)、再臨後には「キリストと共に」(Ⅰテサロニケ4:17参照)生きるという熱い情熱に突き動かされていました。迫害者からクリスチャンに回心して以来、パウロにとってキリストはすべてのすべてとなりました。

次の御言葉は、パウロのイエス・キリストを信じる信仰の確信を示しています。

「死、命も、・・・わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38~39)。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(同14:8)。

パウロは、「この世を去って、キリストと共にいたい」(フィリピ1:23)との熱い思いを語りましたが、それは死後、肉体を離れて魂が意識だけでキリストと共に生きることを意味したのではありません。また、この聖句はパウロが死んだ時に天に行くことを望んでいたということを教えているのでもありません。パウロは、再臨の時まで報いを受けることはないと非常に明確に述べています(2テモテ4:8)。

パウロは、再臨の時に「義の冠」(2テモテ4:6~8)を受けるとの揺るがぬ確信を持っていました。パウロは死を望んだのではなく、死の先にあるものを見ていました。

 

5.水曜日:捕らわれていた霊たちへの宣教

今日の聖句は、「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(Ⅰペトロ3:19)。です。

霊魂の無条件の不死を信じる注解者たちは、通常、キリストは、まだ墓に眠っている間に「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教され」(Ⅰペトロ3:19)たのだと主張します。彼らは、肉体を離れたキリストの霊が地獄へ行き、ノアの洪水前の肉体を離脱した霊たちに宣教したと考えるのです。

しかし、次の二つの聖書の真理に照らし合わせてみた場合、彼らの主張は受け入れられるものではありません。

1) 死者に第二の救いのチャンスはありません(ヘブライ9:27~28)。

2) 死者は終わりの日の復活まで無意識のままです(Ⅰテサロニケ4:13~15)。

「獄に捕らわれている霊ども」Ⅰペテロ3:19(口語訳)とは、「ノアの箱舟が造られていた間・・・従わなかった者ども」(20節)のことを述べています。この聖句で用いられている「霊」(ギリシャ語の「プネウマ」)は、新約聖書の至るところ(Ⅰコリント16:18、ガラテヤ6:18)に見られる表現で、救いの招きを聞いて受け入れることができる、生きている人に対して用いられる言葉です。また、「獄に」という表現は字義通りの獄を意味するのではなく、生まれ変わっていない人間の性質に見られる罪の奴隷を意味します。

 

6.木曜日:祭壇の下の魂

ヨハネの黙示録6:9には、次のように記されています。「小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下で見た。」

死についての聖書の真理は明白です。「死者はもう何ひとつ知らない」(コヘレトの言葉9:5)。

「息吹を取り上げられれば彼らは息絶え、元の塵に返る」(詩編104:29)。よって、「殺された人々の魂」の意味を、殉教した人たちの魂が存在していると解釈するのは間違っています。

「祭壇」という言葉は、殉教者たちを犠牲のささげものにたとえた表現です。ヨハネの黙示録には多くの象徴的表現がありますが、この箇所もその一つです。

ヨハネの黙示録6:10には、次のように記されています。「彼らは大声でこう叫んだ。『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。』」この箇所は、象徴的に殉教者たちの血が最後の裁きの日を待ち望んでいることを示している内容だと理解できます。すべてが明らかにされる日が来ることを待ち望む、切実な訴えがここに記されています。この訴えの答えが、ヨハネの黙示録19:1~2に記されています。「・・・ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである。」

 

7.金曜日:さらなる研究

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない」(創世記3:4)。サタンの最初の嘘は、「死」についてでした。エレン・G・ホワイトは、次のように記しています。エデンの園で蛇がエバに言った「あなたは決して死ぬことはないでしょう」という言葉は、霊魂の不滅について語られた最初の説教であった(『各時代の大争闘』下巻、281ページ)。

サタンは死後の状態について嘘をつくことで、人々をだましています。私たちの周りには死後についての間違った考えや教えが多く存在しています。そのような危険な時代にあって、「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)。です。聖書の中に真理があります。

聖書の御言葉は、何が正しいことで何が誤りかを私たちにはっきりと示しています。危険な時代を歩む私たちにとって、最も安全な道は祈りのうちに聖書を学ぶこと、御言葉を心に蓄えること、学んだ御言葉を実践することです。

私たちは、これからも機会あるごとに私たちが信じている聖書の真理を語り続けていきたいと思います。