安息日学校部

第5課 聴覚しょうがい者用: 寺内 三一

2019年第3期「この最も小さい者ー助けを必要としている人たちへの奉仕」

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第5課 預言者の叫び 寺内 三一

 

1.安息日午後

聖書の神様のご品性には「憐れみと正義(優しい愛と厳しい愛)」の二つの面があります。それは、母親の優しい愛と父親の厳しい愛のバランスが取れていると、子供が「右にも左にも曲がらずに」正しく育ち、幸せな人生を送れる事を示しています。神様はモーセに、ご自身の御名(ご品性)を宣言されました。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまこととに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を三代、四代までも問う者。」(出エジプト記34:6、7)。

旧約聖書の時代に、神様の「憐れみと正義」「優しい愛と厳しい愛」を現す二つの役割がありました。それは「祭司と預言者」です。祭司は、神様の「憐れみと優しい愛」を現す働きをして、罪に気づき悔い改める罪人の罪を執り成し、救いに導きます。預言者は、神様の「正義と厳しい愛」を現す働きをして、妥協することなく罪を指摘して、罪に気づかせて人を悔い改めと救いに導きます。

今週は、神様の「正義と厳しい父親のような愛」を現す預言者の働きを学びます。

箴言に「むちを控えるものは、自分の子を憎む者。子を愛する者は熱心に諭しを与える。」(箴言13:24)「あらわな戒めは、隠された愛にまさる。愛する者の与える傷は忠実さのしるし。憎む人は数多くの接吻を与える。」(箴言27:5、6)とあります。あらわな戒め(厳しい言葉)は、聞く人には耳障りでも、それは相手を真に愛する愛の現れです。耳の痛い事を言ってくれる人は大切な人です。

私達は、相手から(厳しい事を)言ってもらわないと気がつかない事が多くあります。また、相手に(厳しい事を)言わないと気づいてもらえない事があるのです。互いに言うべき厳しい事を言うのが「互いに愛し合う事」でもあるのです。優しいだけでは不十分な時があるのです。真実の愛は、厳しい言葉で相手を一時的に悲しませてもあるべき姿に回復する事を願うのです。厳しい言葉で相手に一時的には嫌われても良いとの覚悟を持つ勇気のある態度を示す事なのです。

預言者は、罪を指摘して罪に気づき悔い改めるように導く「神様の厳しい愛の声」です。罪には二つの面があります。一つは、間違った事(悪い事)をしている事です。もう一つは、すべき事(良い事)をしていない事です。預言者は、間違った考えや行いを指摘して悔い改めに導きます。また、貧しい人、苦しんでいる人、助けの必要な人への憐れみと慈しみを忘れている事を指摘して、憐れみと慈しみに立ち帰るように勧めます。

私達も、互いに預言者として「神様の厳しい愛の声(耳に痛い声)」を聞いて、その声に従って神様の祝福の道を歩んで行きたいと思います。またある時は「神様の厳しい愛の声(耳に痛い声)」を語る預言者として、歩んで行きたいと思います。

 

2.日曜日:繰り返される正義への呼びかけ

旧約聖書の時代、イスラエルの民は、「ほかのすべての国々のように、裁きを行う王を立てて下さい」と、当時のイスラエルの指導者であった預言者サムエルに求めました。サムエルは、イスラエルに王が誕生すると「あなたたちの息子も軍隊に徴用される~娘たちも徴用される~畑も王のために没収される・・あなたたちは王の奴隷となる」と将来の現実を隠す事なく民に警告しました。

サムエルは、サウル王が即位した後、サウル王にも警告しました。ダビデ王がバテシバと姦淫して妊娠して、罪を隠すためにバテシバの夫を巧妙に戦場で死なせた後に、預言者ナタンがダビデ王の所に来てダビデの罪を指摘して、罪の悔い改めに導きました。この様に旧約聖書の時代には、神様は預言者を遣わして「神様の厳しい愛の声」を何度も何度も伝えました。

私達人間は、不正や偽善、暴力、貧困、搾取があっても、それに慣れてしまうと良くない状態に鈍感になってしまい、腹を立ててそれらを改善しようという思いにならなくなります。憐れみの心を持つ神様は、貧しく苦しんでいる者をそのままにしてはおかれません。預言者を遣わして憐れみのなさを指摘して人を憐れむ者とさせるのです。また、正義である神様は、不正と悪をそのままにはしておかれずに預言者を遣わして、罪を指摘し、罪に気づかせ、正しい道に導くのです。

 

3.月曜日:アモス

アモスは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する農民でしたが「行って、わが民イスラエルに預言せよ」との神様の声を聞き、預言者として召されました。そして彼は神の召しに従い民に語りました。現代の私達も、それぞれの普段の生活と働きの中にあって、アモスのように「もう一人の預言者」として神様の言葉を語り伝える者として召されているのではないでしょうか。

ダビデ王の子ソロモン王は神殿を建設し素晴らしい信仰を現し、外国の人々が遠くからやって来るほどに神様をあかししていましたが、後に、外国の神様に心を向け、神様を信じない国々と交わるようになり、国は北王国のイスラエルと、南王国のユダに分裂してしまいました。

アモスは、ユダヤの国の周辺の異邦人の国々の犯罪、暴力、残虐行為を指摘しました。次にアモスは、北王国イスラエルに、さらに南王国のユダにも、神様を拒み偶像礼拝をし、神様の掟に従わなかった信仰の罪を指摘します。また、民が貧しい者の訴えを退けて憐れみを現さなかった罪を指摘し、罪の裁きと滅びの警告を語ります。しかし、アモスは、罪の指摘だけではなく民に、「善を求めよ、悪を求めるな~自分の神と出会う備えをせよ~主を求めよ」と信仰の励ましを語ります。また、「その日には(後の日には)ダビデの倒れた仮庵を復興する」(アモス9:11)と希望の言葉も語るのです。アモスは、「これがダメ」と悪い所を指摘するだけではなく、「このようにすると良い~そうすると希望がある」と何をしたら良いか~そうすると希望があると、具体的な励ましと希望と意欲をも与えた預言者でした。私達も罪を指摘するだけでなく、励ましと希望を与える人になりたいですね。

 

4.火曜日:ミカ

預言者のミカは、「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる」(2:2)と貧しい人たちが苦しめられている姿を指摘しました。また、「頭(民の指導者)たちは賄賂を取って裁判をし、(宗教の指導者の)祭司たちは代価を取って教え」る(3:11)と指導者の罪を指摘し、国の滅びを預言しました。

神様が預言者を遣わすのは、滅ぼすためではなく救うためです。関心を持ち見捨てていない現れであり、神の愛と魂への配慮があるからです。そして神様は預言者ミカを通して励ましの言葉を語るのです。(暗唱聖句)「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)

 

5.水曜日:エゼキエル

預言者エゼキエルは、当時の民に、罪が満ちて滅ぼされたソドムの罪と同じだ、またそれ以上だと語りました。ソドムの罪は「高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。」(16:49)という罪です。また「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか~お前たちは群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで過酷に群れを支配した。」(34:2―4)と罪を指摘しています。エゼキエルの預言は、罪の指摘と罪の裁きと国の滅びの結果として、民が敵国へ捕囚となる事だけではなく、さらにその先の神様のご計画である回復の希望を語ります。

エゼキエル書は、最後の47章48章に「命の水が神殿から流れ出て水が増し、泳がなければ渡る事の出来ない川となり、水は汚れた海に注ぎ、海の水もきれいになり、すべての生き物が生き返り、川の岸には果樹が大きくなり葉は枯れず、果実は食用となり、葉は薬用となる。」と記されています。さらに、「神様の祝福を現す土地がイスラエルの12部族に再び割り当てられ、外国人にも分け与えられる。滅ぼされた神の都が回復する。」との希望と励ましで締めくくられています。

 

6.木曜日:イザヤ

預言者イザヤは、民の罪を「かれらはわたしに背いた。牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず私の民は見分けない。災いだ、罪を犯す国~悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り主を捨てた~支配者らは無慈悲で~孤児の権利は守られず、やもめの訴えは取り上げられない」と指摘します。そして「背く者と罪人は共に打ち砕かれ、主を捨てる者は断たれる」(1:28)と神の裁きを告げます。イザヤもまた、罪の指摘と悔い改めを語ります。そしてさらにその先の神の救いの希望を語ります。

イザヤ書は、救い主イエス様の預言が多く記されていますので「旧約聖書の福音書、第4の福音書であるヨハネの福音書の次の“第5の福音書”」とも呼ばれています。イエス様について「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、驚くべき指導者、力あるある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」(9:5)。「彼は~傷ついた葦(あし)を折ることなく、暗くなった灯心を消すことなく~」(42:3)。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤りそれぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に追わせられた」(53:5、6)。と記されています。

イザヤは、58:7,8に、私達が神様イエス様から憐れみを受けるだけではなく、人を憐れむと(優しい愛で愛すると)「飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすればあなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかに癒される。」と憐れむ者の傷もいやされるとの祝福を記しています。

このようにイザヤは、救い主イエス様は、私達をいやし、救い、神様の憐れみと正義を回復して下さるという希望を語っているのです。救い主イエス様をさらに知り神様からの祝福を受けるためにイザヤ書を読み続けていきたいものです。

 

7.話し合いのテーマ

・あなたは自分にとって耳の痛い指摘を聞入れることができていますか?(特に家族からの指摘)

・「北風と太陽」のお話があります。人のコートを脱がせるのに、北風の冷たさではなくではなく太陽の暖かさによって人は自然とコートを脱ぐというのです。人からの北風にさらされて、さらに心がかたくなになった経験はあますか? 人からの太陽の暖かさを受けて、心が温められ自分から行いを改めたことがありますか? 相手に気づいて欲しい事をどのように伝えたら良いでしょうか?

・料理の上手な人は「砂糖と塩の使い方が上手だ」と聞きました。それは、私達の人間関係で、また信仰生活の中で「優しい愛と厳しい愛」の使い分けとも言えるかもしれません。あなたは、砂糖と塩のように「優しい愛(言葉と行い)と厳しい愛(言葉と行い)をどのように使い分けていますか?

・「おりにかなって(時宜にかなって)語られる言葉は、銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ」(箴言25:11)とありますが、その時にふさわしいタイムリーな言葉を語るためには何が必要でしょうか?