安息日学校部

第5課 聴覚しょうがい者用:北 睦夫

2021年第3期「キリストにある休み」 

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第5課  「わたしのもとに来なさい……」  北 睦夫

1.安息日午後

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」

この聖書の言葉は、教会の玄関の表に貼られている聖書の言葉の中で、一番多く用いられている言葉ではないでしょうか。今週は、多くの人の心をとらえているこの聖書の言葉の意味を知り、この言葉を語られたイエスとの関係をさらに深めていきたいと思います。

 

2.日曜日:「休ませてあげよう」

イエスが言う、疲れと重荷とは、罪からくる疲れであり、罪からくる重荷のことです。あなたたちは、ソドムの人たちよりもひどい罪の状態です。だからイエスは、強い命令形で「来なさい」と言います。この「来なさい」という招きに従うときに、真の平安と自由を得ることができるのです。

 

3.月曜日:「わたしの軛を負いなさい」

イエスはなぜ、私たちの重荷を彼にゆだね、真の休みを得るように招いた直後に、彼の軛を負うようにお命じになるのでしょうか。(マタイ11:29~30)

それは、荷を積んでいないタンカー船が、大風に揺られて不安定なように、重荷を負っていない人の人生もふらふらして不安定だからです。重荷を負うことによって人は、安定した人生を送ることができます。ただその重荷が罪の重荷であったら苦しいものです。同じ重荷を負うならイエスが与えてくれる重荷(軛)を負いたいものです。イエスは私を、命をささげるほどに愛してくださっています。その愛にこたえることが軛を負うということです。わたしたちも自分のことを心から愛してくれる人のためだったら、その方の願いを聞き、従い、喜んでその方の重荷(軛)を負いたいと思うのではないでしょうか。

 

4.火曜日:「わたしは柔和で謙遜な者だから」

イエスの柔和と謙遜は、フィリピの信徒への手紙2章6節~11節に、はっきりと示されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」なぜイエスは、ここまで徹底してへりくだっておられるのでしょうか。それは、真実にあなたを愛し、あなたを救いたいからです。

 

5.水曜日:「わたしの軛は負いやすく」

神の律法(軛)に従う人生は、なぜ律法(軛)に従わない人生よりも平安に満ちているのでしょうか。

答え:十戒の1条から4条は、神と人との関係、5条から10条は、人と人との関係の守り事です。私たちは、神と人との関係がうまくいくときにはじめて人生が、うまくいきます。平安と喜び、真の休みと自由は、自然とついてきます。十戒を大きく二つにまとめたのが、マタイによる福音書22章37節~40節です。ここには、神を愛することと人を愛することが律法だとあります。

イエスの軛は、律法を守るというよりも神と人とを愛するという、より積極的なものです。私たちが、神をより愛そう、人をより愛そうとすると困難にぶつかります。しかしそこに神の霊、聖霊が注がれるのです! 私たちが、神の恵み(聖霊)を体験できるのは、神を愛すること、人を愛することに、前向きに取り組むときなのです。

 

6.木曜日:「わたしの荷は軽いからである」

「足跡」という詩があります。

海辺をイエスと二人で歩んでいます。途中、一人の足跡しかありません。わたしの人生で最も苦しいときです。なぜ、最も苦しいとき、最もあなたを必要としているときに、わたしを一人にしたのですか!とイエスに叫んだとき、「わたしは、あなたを決して一人にはしない。まして苦しいときに。その一人の足跡しかないのは、わたしが、あなたを背負っていたからだよ」という詩です。

「わたしの荷は軽いからである」というのは、あなたが背負う十字架は、わたしイエスが、あなたと一緒に背負っているという、イエスの、決してあなたを見捨てない、重荷を負っているあなたを最後まで背負うという、約束の言葉なのです。(イザヤ46:4)