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第4課 主の目—聖書の世界観 松枝重則
1.安息日午後
昔の人たちは長い間、地球が宇宙の中心であり、地球は回転していないと考え、信じていました。
今日、最高の教育を受けた最も賢いと言われる人たちの多くが、人間はアメーバのような単純な生き物から進化したと考え、信じています。(しかし本当は、単純な生き物と考えられているアメーバなどでも、複雑な機能を持つ生き物なのです。)
聖書を信じていなければ、人は限りある知識を通してしか世界を見ることができません。しかし、聖書を読み、聖書の神を信じれば、「主の目」を通して本当の世界を理解することができるのです。
2.日曜日:主の目
世の中には大きく分けて二つの考えがあります。
1.「神はいない」という考え。
・この世界はただ「ある」もので、だれかが作ったものではないという考え。
・この世界は、神ではなく別の存在が作ったという考え。(オックスフォード大学のある教授は、この世界はすべて本当の世界ではなく、宇宙人がコンピューターで作ったものだという理論を立てました。)
2.「神はいる」という考え
・神がおられることを信じ、神が全てを造られたと信じる考えです。
キリスト教教育の中心には神の存在があります。天地を造られた神は、自然の法則に縛られず、奇跡を起こすことのできる神です。今こそ神を中心に考える教育が必要とされています。なぜなら多くの人が科学者の言うことを信じ、神はいないと信じ教えているからです。
3.月曜日:ライプニッツの問い
聖書は「全てを造られた神が存在する」と説明しています。
聖書には大切な教えが沢山あります。あがない、律法、十字架、復活、再臨など、全て聖書の大切な教えです。しかし、聖書の教えで最も大切な教えは、「天地を造られた神がおられる」ということです。
神が天地を造られたという教えが、全てのキリスト教教育の中で最も大切な教えなのです。
創世記1章は天地創造の神の言葉で始まっています。天地を創造された神がおられるからこそ、全てが造られました。
そして天地創造の神が、私たちを造り、愛の律法を与え、十字架にかかり、復活され、あがなわれ、まもなく再臨されるのです。全ての聖書の教えは、創造主なる神が中心になっています。
ですから、聖書を教える時、創造主なる神が大切であることをまず教えることが大切なのです。
世の中では命が数十億年かけて、突然、偶然、ゆっくり成長してきたという進化論が信じられています。この進化論を信じることは創造主なる神を信じないことに繋がりますからとても危険な教えです。しかしもっと危険な教えは、聖書の天地創造と進化論を混ぜて教えることです。天地創造と進化論を混ぜて教えることは、聖書を信じると言いながら神を信じないという最も恐ろしい信仰へと導くのです。
4.火曜日:聖書の世界観
神を信じない無神論者にとって「虹は自然にできた綺麗なもの」でしかありません。しかし、聖書の信じるクリスチャンにとって「虹は綺麗なもの」であるだけでなく、「この世界を二度と水で滅ぼさないという神の約束の再確認」でもあります。
私たちの知識は限界があります。しかし、聖書を通して物事を見ることによって、難しい問題も解決することができるのです。
5.水曜日:あがない主を礼拝しなさい
私たちの信仰に天地創造の教えはとても大切です。天地創造の教えは時々、あがない(救い)の教えと一緒になって聖書に出てきます。天地創造とあがないの教えがなぜ一緒に聖書に書かれているのでしょうか。それは罪と死の世界で天地創造の教えだけでは十分でないからです。聖書の天地創造の神について書かれている所には時々、十字架、復活されたイエス・キリストのことも書かれているのです。
第一天使の使命には(黙示録14:6,7)、「永遠の福音」が天地を造られた創造主と一緒に書かれています。そして、私たちを創造されたイエス・キリストが人となり、私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださったのです。私たちを救うために死んでくださったイエス・キリストに、私たちはなにをすることができるでしょうか。私たちがイエス・キリストにできるもっとも素晴らしいことは神を礼拝することです。
イエス・キリストが私たちのために死なれたことで救いの道が開かれたのですから、十字架にかかられたイエス・キリストが私たちの教えの中心になります。私たちの教えの中心には再臨も含まれます。
私たちの教えに再臨が含まれる理由は、イエス・キリストが十字架で死んでくださったとしても、キリストの再臨によって私たちが救われなければ十字架の意味がないからです。ですから、私たちの教えの中心はキリストの「初臨・再臨」と「救いの計画」の二つであると教えることができます。
6.木曜日:神の律法
昔、フランスで、死刑を続けるべきか、それとも死刑を廃止するべきか、お互いの意見を話し合う時がありました。
死刑の廃止を求めた人たちは、有名な哲学者、ミシェル・フーコーに死刑を廃止することが必要だとわかる文章を書いて欲しいと頼みました。しかしフーコーは死刑をなくすことだけでなく、刑務所をなくし、すべての囚人を解放せよ訴えたのです。フーコーにとって、死刑も刑務所も囚人も全て人間が決めた制度だから、人間が決めたことはすべて間違っていると考えたのでした。
確かに人間が正しいと思って決めたことでも間違いがあります。では私たちはどうすれば良いのでしょうか。その答えが聖書にあります。天地を創造された神が十戒を与えてくださり、何が正しくて、何が間違っているか教えてくださっているのです。私たちは十戒を通して正しい生き方に導かれるのです。
7.金曜日:さらなる研究
一般の学校では聖書の教えと逆のことが教えられています。ですからセブンスデー・アドベンチストの学校では聖書を中心にした教えをしなければなりません。私たちは自分の学んだことを通して物事を理解します。学んだことが正しければ正しい方向に導かれることも可能ですが、間違ったことを教えられれば、間違った考えになり、間違った道に導かれてしまいます。ですから、救いの道に進むためにセブンスデー・アドベンチストの教育が基礎になることが大切なのです。
■話し合いのための質問:
- 間違った教育が過去の歴史にいくつもあります。間違った教育で生徒は何を教えられましたか? 間違った教育から何を学ぶことができますか? 間違った教育からどのように守られることができますか。(第二次世界大戦時の日本の教育など)
- 今週のタイトルは「主の目」です。私たちは物事を見る時、自分の考えだけで物事を見て考えているでしょうか。それとも聖書の真理を通して物事を見て考えているでしょうか。イエス・キリストが人として地上におられた時、イエス・キリストはどのように見て考えていたでしょうか。私たちはどのように見て考えるべきでしょうか。
- 人々が信じている教えで聖書と逆の教えにはどのような教えがありますか。間違った教えが沢山あるなかで、私たちは何を学ぶことができますか。
- 全てを造られたイエス・キリストが私たちのために十字架で亡くなられました。十字架で亡くなられたイエス・キリストを礼拝することは、私たちにとってなぜ自然なことなのでしょうか。