安息日学校部

日本における信仰の開拓(日本)

日本における信仰の開拓(日本)

国谷秀(ひいず)は、初期のアドベンチスト日本伝道における開拓者の一人です。1872年、日本で生まれ、彼は20歳の時に、兵役に就きました。

そこで、友人に導かれてクリスチャンとなります。軍隊にいた国谷は、研修医の川崎杢太郎(もくたろう)に出会いました。川崎は、日本に初めて公式に派遣されたアドベンチストの宣教師、ウィリアム・グレンジャーの英語による聖書研究会に参加していました。川崎は、一緒に聖書研究に参加しないかと、誘ったのです。

国谷はその招きを受け入れました。熱心に聖書を学び、アドベンチストのメッセージが聖書の真理であり、イエス様は間もなく来られることを確信します。国谷と川崎はすぐにバプテスマを受けました。

バプテスマを受けた後、国谷は宣教活動に従事しました。街頭で説教し、文書伝道を始め、アドベンチスト初の日本語による定期刊行物の編集作業を担いました。

1900年の夏、彼は貧しい日本人のために「神戸療養所」の開設を支援しました。これが教会設立のきっかけとなりました。国谷によれば、設立には困難が伴ったものの、しばらくの間、そこが日本宣教の中心となりました。

1904年、国谷は2人の韓国人クリスチャンに出会います。7日目安息日について話すと、彼らは聖書の真理を受け入れ、バプテスマを受けました。これが、韓国人への最初のアドベンチストの働きかけでした。国谷は韓国に渡り、伝道します。1907年に、按手礼を受け、日本人初のアドベンチスト牧師となりました。

国谷は1909年の世界総会に出席し、彼の日本での宣教活動を報告しています。

使徒パウロのように、国谷は福音が伝えられていない地域に、福音を伝えることが使命であると確信していました。文書伝道をしながら、彼は日本の多くの都市に教会を設立します。

1918年、国谷は東京で宣教するよう召されました。彼の働きの結果、首都東京の教会は大きく成長します。第二次世界大戦中、警察は国谷を含む42名のアドベンチストを逮捕しました。彼は約半年間投獄されましたが、その間、腎臓と心臓を患っていることが判明し、病院へ送られました。幸いにも健康を回復し、起訴を免れ、自由の身となりました。戦後、彼はすぐに各地に離散した信徒や求道者を訪ね、励ましました。

1962年、国谷牧師は亡くなりました。彼の忠実な献身は、日本のアドベンチスト教会の堅固な基礎を築きました。

もっと開拓者の物語を知りたい方は、ホームページをご覧ください。

(ENCYCLOPEDIA.ADVENTIST.ORG)

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