「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。
『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(コリントの信徒への手紙一・1章18〜25節)。
このみ言葉は、この8月末しばしの眠りについた父が高校2年生の私に読んでくれたみ言葉です。その夏休み、私は新潟県高田市で初めての文書伝道に立ちました。甲子園では三沢高校の太田幸司が活躍し、アポロ11号が月に降り立った暑い夏でした。そこで私はひとりの創価学会員の家を訪問し、何時間もキリスト教の理不尽さ、非科学性を説かれたのです。尋問のように続く彼の問いと、キリスト教否定の言葉に、若い私は打ちのめされました。自らの浅学と信仰の危うさを痛感した経験でした。その経験を語った夜、父がこのみ言葉を静かに読んでくれたのです。
確かにこの世は自分の知恵で神を知ることはできません。それは神の知恵にかなっているというのです。聖書の神の存在を、科学的に証明することは決してできません。聖書の示す真理も、人間の理性で完全に理解し納得できるものではないのです。それで良い、とパウロは言います。神はただ宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうとされているのです。私たちが宣べ伝える究極の真理、それはキリストです。キリストの十字架の福音です。「十字架の言葉」です。この「十字架の言葉」を聞いて信じる者だけが救われるのです。
私たちは、信仰をもって「十字架の言葉」を語っていきたいと思います。当然多くの拒否にあうでしょう。彼らの反論は理性的で科学的であるかもしれません。それでも私たちは神の力、神の知恵である十字架のキリストを粛々と宣べ伝えるのです。すべては神の御手の中にあります。ただ神を信じてキリストを語り続けるのです。それが神の人類救済のご計画だからです。
「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」(コリントの信徒への手紙一・1章30、31節)。
教団総理 島田真澄 アドベンチスト・ライフ2018年11月号