私たちは、安息日には「ハッピーサバス」と挨拶します。安息日はお祝いする日だからです。神が私たちを生かしてくださっていることを喜び感謝して、お互いの存在を喜び祝う日だからです。
安息日には断食をしないのがユダヤ教の伝統だといいます。神がこの日を喜び祝うように祝福してくださっているのだから、その日に断食することは、安息日を与えてくださった神の御心に沿っていないと考えられているのです。例外とされているのが、1年に1回「贖罪の日」のみなのだそうです。
ある牧師が、「私は安息日に、罪をお赦しくださいと祈るのはやめましょうと教会で教えています」と言いました。「なぜなら、安息日はイエス様が私たちを赦して受け入れてくださったことを感謝する日だからです」。なるほどと思いました。しかし一方では、このように考える人がいるかもしれません。「それは、すてきな恵まれた6日間を過ごした人だけができることです」
でも安息日はすべての人に与えられたのです。成功した1週間を過ごした人だけが安息日を祝えとは言われていません。試練の中にある人も、散々の1週間を過ごした人も、そして神と隣人に対して罪を犯してしまった人にも、安息日は公平にやってきます。そこには何の差別もないのです。
そして、安息日の始まりは金曜日の日没であることを思い起こす必要があります。どんなに試練の中にあっても、神は私たちの歩みを一旦そこでリセットしてくださいます。私たちは安息日ごとに再創造されるのです。私たちが安息日を祝う根拠は創造だけではなくて、罪を犯し神から離れていた私たちが赦され、受け入れられ、神の子の身分が回復されていく再創造の過程に入れられた事実があるからです。バプテスマを受けた方々にとっては、それはバプテスマを繰り返す経験です。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです」(ローマの信徒への手紙6章3、4節、聖書協会共同訳)。
私たちは知っています。金曜日の晩にはイエスと共に死んで葬られ、イエスの復活の命に生かしていただけることを! あなたも金曜日の日没どこにいようと、すべての重荷、罪とがを主イエスの前に置いて、過去1週間の古き自分自身を葬っていただきましょう。そこに命があることをあなたも知っているはずです。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ2025年2月号
教団総理 稲田 豊