セブンスデー・アドベンチスト教会

主の前に近づきなさい

主の前に近づきなさい

主の前に近づきなさい

民数記16章には、神のお導きに従って救いの旅を経験したイスラエルについて記されています。
「イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが」(出エジプト記16章1節)。

イスラエルの民が正月の15日にエジプトを出立し(民数記33章3節)、それから1か月が経ったときのお話です。
出エジプト記7~15章を見ると、イスラエルの民はエジプトから出たとき、神の驚くべき奇跡を経験していたことがわかります。エジプトに降りかかった十の災い、紅海を分けられた道を渡ったこと、苦くて飲むことができなかった水が甘くなったこと。このような経験をしてから1か月後、イスラエルの民がモーセとアロンを訪ねてきました。
「その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。『……あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている』」 (出エジプト記16章2、3節)。

すばらしい奇跡を経験したイスラエルの民が、モーセとアロンに文句を言ったのです。『人類のあけぼの』では、そのときの状況をもう少し詳しく説明しています。
「彼らはまだ飢えてはいなかった。そのときの必要は満たされていたのであるが、彼らは将来を恐れたのである。この大群衆が、荒野の旅をどのようにして生きていくのか、彼らはわかっていなかった」(『人類のあけぼの』文庫版中巻37ページ)
彼らは、まだ当面していない問題について恐れていました。その理由はこうです。
「奴隷の境遇から救済されたときに彼らのために神の恵みと力があらわされたことを彼らは忘れた」(同38ページ)。
彼らが歩んでいた道は、約束の地へ向かう道でした。しかし、その道中で目の前に現れる問題によって勇気を失い、救いと力の神様を疑うようになっていったのでした。
私たちは信仰の道を前進しています。しかし、荒野にいたイスラエルの民と同様に、各自の人生には依然として問題が存在しています。2025年、新たな信仰の旅が始まるこの1月に、次のモーセの言葉を注目してみたいと思います。

主の前に近づきなさい

モーセはつぶやいていたイスラエルの人々に、神に近づきなさいと語りました。
「モーセはアロンに言った、『イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、「あなたがたは主の前に近づきなさい……」』……彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた」 (出エジプト記16章9、10節)。

神に近づいたイスラエルの人々は、神の栄光を見ました。依然として寂しい荒野でしたが、その荒野に神の栄光が見えたのです。不信の目で荒野を見ると絶望ですが、信仰を通して見れば、神の栄光を見ることができます。荒野の空しさに絶望し、不平不満を言う前に、私たちは神に近づかなければなりません。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)。
人生は、嬉しいことや、良いことだけがあるわけではありません。荒涼とした荒野の経験をしなくてはならないこともあるでしょう。神はそのようなときに、目の前の問題に捉われるのではなく、まず神に目を注ぐことを望まれます。

不可能を可能に

イスラエルは年間降水量が200~500ミリと、水不足の国です。そのことから、特徴として共同農場があります。世界から高い技術や知識を持ったユダヤ人たちが集まり、農業技術が急速に発展していきました。土の中にホースを埋め、植物の根に必要な分量だけ水を供給できる「点滴灌水」という技術を用いて、砂漠で高品質な農作物を収穫しています。現在、UN水資源技術の1位はイスラエルです。
しかし、約3500年前のイスラエルにはそのような技術はありませんでした。彼らは砂漠で何の作物も得ることができませんでした。そんなイスラエルの民のために神は、ある一つのことを成し遂げられます。
「また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった」(出エジプト記16章13、14節)。

神がイスラエルに栄光をお示しになった後、彼らにマナを与えてくださいました。それは地面にいっぱいで、イスラエルの民が十分に食べられる量でした。数百万のイスラエルの民が恐れていた問題を、神は一瞬で解決されたのです。
神は、決して彼らの必要を心にとめておられない訳ではありませんでした。神の民が、目の前の心配事にうちひしがれることは、神のみこころではなかったのです。どんな環境の中にあっても、神をまず第一に求めて信頼し、約束された地へ入るために準備することこそが、神のみこころでした。
イスラエルの民はマナを毎日食べることによって、神の愛を悟りました。
「四〇年の間、彼らはこの奇跡的な供給によって、神の絶えることのない守護と優しい愛を毎日自覚させられた」(『人類のあけぼの』文庫版中巻46ページ)。

将来を恐れ、神を信頼できていなかったイスラエルの民は、毎日のマナの奇跡を通して、共におられ、必要を満たしてくださる神を信頼することができました。私たちに与えられている「マナの奇跡」は何でしょうか。
「イスラエルを養うために天から降ってきたマナは、世に命を与えるために、神のみもとからこられたお方を象徴していた」(同47ページ)。

私たちが神の国へ至るまで毎日食べなければならないマナは、イエス・キリストです。私たちがマナであられるイエスと日々、霊的な交わりを持つとき、私たちは主と共に健全なクリスチャンとして生きることができるでしょう。私たちのために与えられる日々のマナの奇跡を覚え、必要を満たしてくださる神に近づいてまいりたいと思います。

*聖句は口語訳を使用

*聖句は©️日本聖書協会

鄭 義權/ジョン・ウイグォン

来日して10年目のPMM牧師です。神様と音楽が大好きな、妻と2人の息子の4人家族です。現在は久慈川教会、久慈川三育小学校、つくば学園教会、栃木集会所を担当しております。

アドベンチスト・ライフ2025年1月号