セブンスデー・アドベンチスト教会

ただ、ひと言おっしゃってください

ただ、ひと言おっしゃってください

福音書の中には、イエスのなさった数々のみ業が記されています。人々は救いを求めてイエスのみもとに押し寄せました。しかし、中にはいたずらにしるしを求めるだけの人もいました。エレン・ホワイトは、イエスが「何度も彼らの不信に驚かれた」と記しています。この表現は、イエスの悲しみの深さを表しているように思います。彼らが求めていたのは、メシアの本質ではなく、外面的なものだけでした。
一方でイエスは、人々の内側にある本当の必要を知っておられました。外面的な癒やししか求めない人間に対し、イエスは愛と憐れみをもって全人的な回復、体と魂全体の回復を与えられたのです。

代理で遣わされたユダヤの長老
ある日、イエスのみもとにユダヤ人の長老たちが来ました。百人隊長の部下が病で死にかけているので、助けてほしいと言うのです。この百人隊長は、よほどユダヤ人のために尽力していたのでしょう。長老たちはイエスに対し、この百人隊長は異邦人とはいえ、ユダヤ人によくしてくれているのだから、その部下も癒やされる資格があると言うのです。
これを聞かれた時、イエスのお心にはまた悲しい驚きがわき起こったのではないかと思います。百人隊長は善い人であるから救われるべきだ、と言う長老たちは、福音を全く理解していませんでした。
しかし、イエスはそれに対して何も言わず、百人隊長の家に向かわれました。その歩みは、大勢の癒やしを求める群衆に囲まれたために遅くなり、イエスが向かってくる、という情報は先に百人隊長の耳に届きました。
彼は信仰深く、熱心に律法を学んでいました。ユダヤ人ができるだけ異邦人と関わりたくないと思っていることも知っていました。ですから彼は、長老たちに代わりに行ってもらったのです。彼はまた、厳格なユダヤ人は異邦人の家に入ることを快く思わないのを知っていました。そこで、あわてて友人を使いに出し、「わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」(口語訳)と言わせました。
しかし、イエスはなおも進んでこられます。そこで百人隊長は、やっと自ら出向いたのです。「すると、百人隊長は答えた。『主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます』」(マタイによる福音書8章8節)。

イエスを驚かせた百人隊長の信仰
「ただ、ひと言おっしゃってください」という言葉を聞いたその時、イエスの心に驚きがわき起こりました。しかしそれは、ユダヤ人たちに対して抱かれた悲しみの驚きではなく、喜びの驚きでした。イエスは百人隊長の信仰に感心なさり、彼に向き直って、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃいました。
「ただ、ひと言おっしゃってください」。そう願う彼の信仰に応えたイエスは、ただみ言葉を語りました。今、天地を創造したのと同じ力を持つみ言葉が、この百人隊長の願いのために語られたのです。イエスの権威を完全に認めるとき、ただみ言葉が語られるということはどれほど大きなことなのでしょうか。
ルカによる福音書7章10節には、「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」とあります。ここで「元気になっていた」と訳されている言葉は医者であるルカらしい表現だ、とある神学者は言いました。これは、完全に癒やされていること、すなわち心身共に健全である状態を指す医学用語だというのです。イエスはただ、ひとことおっしゃっただけでした。しかし、そのひとことは、この部下の癒やしに必要とされていたすべてを含んでいたのです。

恵みによる救い
さて、イエスを驚かせたこの百人隊長の信仰は何に基づいていたのでしょうか。イエスの言葉がひとつあれば、すべてが解決すると彼が信じることができたのはなぜでしょうか。
それは彼自身が自分の無力を認めていた、ということです。彼はみ言葉を学び、その光に照らされた時、自分がどんなに罪に汚れているかを知りました。しかし、それでも救いを求めたのです。そしてそれこそが、イエスが喜び、驚かれた信仰でした。
長老たちが、「彼には助けていただくのにふさわしい功績がある」と主張する一方で、彼自身は、「自分には何の価値もない」とした上で、イエスにすべてを委ね、ただ恵みにすがって助けを求めたのです。福音を理解していたのはユダヤ人の長老たちではなく、異邦人の百人隊長でした。
実際、人間は皆罪によって汚れています。本来、神に近づくのにも、近づいていただくのにも、私たちはふさわしい存在ではありません。しかし、私たちには恵みが与えられているのです。
私たちが求めるべきものは、百人隊長が求めたものです。すべてを支配しておられる神に信頼し、「ただ、ひと言おっしゃってください」と求めるだけなのです。その時、神のみ言葉が私たちの人生の中で光として輝き、私たちは心身ともに健全に回復されるのです。

「われわれは、自分自身を神に推薦するようなものを何も持っていない。われわれがいつでも訴えることのできる懇願は、われわれがまったく無力な状態にあるので、神の救いの力が必要なのだということである」(『各時代の希望』文庫版、中巻44ページ)。

私たちには何もありません。イエスに助けていただくのにふさわしいと言えるような業績を、誰も持っていません。しかし、ただ恵みによって私たちは、イエスの十字架の救いにすがることができるのです。
私たちには何もありません。しかし、だからこそ私たちは、ただ恵みによって全能の神の権威あるみ言葉に人生を委ねることができるのです。そのみ言葉に頼りつつ生きたいと思います。

*聖句は©️日本聖書協会

平野佐知子/ひらのさちこ

北海道函館市出身。広島三育学院中学校チャプレン。チンチラとふたりぐらし。

アドベンチスト・ライフ2021年11月号