「行って、すべての民をわたしの弟子としなさい」との大宣教命令を受けたとき、弟子たちの気持ちはどうだったでしょうか。古代ユダヤの小さな世界に生きる、取るに足らない者たちに与えられたこの命令を、弟子たちはどんな気持ちで聞いたのでしょうか。「実現可能なワクワクする命令」と聞いたのでしょうか、それとも「不可能な無茶苦茶な命令」と聞いたのでしょうか。
奇跡の主であるイエス・キリストが先頭に立ってこの地上に共にいてくださるのであれば、何とかなると思えたかもしれません。しかし、キリストは天に帰られるのです。彼らだけが残されるのです。無学でただの人たち(使徒行伝4章13節、口語訳)にすぎない彼らに、世界宣教、すべての民の弟子化などできるのでしょうか。復活のキリストに出会う前であれば、彼らは不可能という否定的な確信に満たされたでしょう。いま彼らは、復活の主に命じられているのです。死に打ち勝ち、勝利の主として復活されたキリストに命じられたのです。彼らは、人間的の理解を超えた復活のキリストの証人なのです。
すべての民のキリストの弟子化は不可能であるとの思いは、目に見える世界しか見ることをしない人間的な思い、全知全能の神を信じることをしない不信仰者の思いであることを彼らは知ってしまったのです。命令のあとに、キリストはあなたがたの目には見えなくとも「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」と約束してくださったのです。その約束があればなおさらです。彼らの内には「できる、可能だ!」との確信が生まれたはずです。使徒パウロも「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピの信徒への手紙4章13節)と、生けるキリストの力を信じました。
イスラエルがエジプトを脱出しカナンの国境近くまでやってきたとき、12人の斥候がカナンの地に送り込まれました。その任務から帰ってきたとき、10人はカナン突入を拒否しました。その戦いに勝てるはずはないと確信したからです。彼らの目にカナン人は強大な巨人であり、自分たちはいなごのように見えたのです。「いなごコンプレックス」に支配されたのです。そして、そのコンプレックスは民中に広がり、すべての空気を支配してしまいました。ヨシュアとカレブが、神の守りと力を主張し、見えない神への信頼を訴えても民の心はもはや動きませんでした。誰よりもこの事態を悲しまれたのは、神でした。イスラエルの神はこの民の不信仰を怪しまれたのです。
いま私たちは日本伝道という大きな挑戦の前に立っています。このとき、目に見える世俗化された日本に、物質主義に支配された日本に、すべてを受容的に呑み込む日本文化に決して目を奪われてはならないのです。私たちが目を注ぐべきは、愛と力の神であり、復活の勝利の主イエス・キリストです。私たちは目に見えない永遠のお方に目を注ぐのです。
教団総理 島田真澄 アドベンチスト・ライフ2016年10月号