セブンスデー・アドベンチスト教会

魂の闘いが必要な時

魂の闘いが必要な時

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピの信徒への手紙3章12~14節)。

私たちは与えられた人生の中で、時に厳しい試練に遭遇することがあります。冷静さや強い忍耐を要求され、理不尽に感じることでしょう。しかし、神が与えられる試練には必ず理由があるはずです。それは正当な理由であり、私たちにとって必要な理由です。
私ごとで恐縮ですが、もし49年前の大きな試練がなかったら、私はクリスチャンになっていなかったと思います。交通事故で母が他界し、当時母子家庭であった私たち兄妹は孤児となりました。ときどき浄土真宗のお寺に伺い、ご住職に経を習い、朝晩仏壇の前で母の供養をしていましたが、半年後の高校受験の際に広島三育学院のことを知り、中学3年の夏休みから高知教会に通い始めました。その9か月後にはバプテスマを受けました。その時に人生で初めて、学んだのだと思います。厳しい試練に遭遇するとき、全力で闘うためには神の助けを求める必要があるということを。

自由意思の尊重と聖霊の導き
自由意思:神は私たちの意思を無視して物事をなさることはありません。私たちが望まないのに、求めないのに、信じさせたり、従わせたり、悔い改めさせたりすることはないのです。
神は正しいことを表し、指し示されますが、決めるのは私たち自身です。しかし罪の傾向を持つ私たちの心は、その間に立って常に葛藤しているのではないでしょうか(ローマの信徒への手紙7章24、25節参照)。

聖霊の働き:私たちの側近くにおられ、導き守り続けてくださっているのは聖霊なる神です。罪の世に生きる私たち罪人を愛し、支え、助け、導くために必要な恵みを常に与えようとされています。
私の目の前には常に神の手が差し出されているのです。そこには私のためのすばらしい贈り物がいっぱいです。私はただその差し出された手に自分の意思で手を伸ばし、その贈り物を受け取りさえすればよいのです。しかし、その差し出された手に気づかず、無関心(無視)、拒否をしてしまうことがあります。「なんと惨めな人間なのだろう、もっと素直に神の愛を受け入れたい」と何度思ったことでしょう。

努力の必要
私たちは何の努力も行動もしないで何かを習得したり、成し遂げたりすることはできません。これは当然のことなのですが、クリスチャンと自称する私たちはときどき勘違いしてしまうことがあります。信仰さえあれば、すべてを神にお任せして自分は何もしなくてよい、行いによって救われるのではないので、自分で努力しないほうがよいと思ってしまうことです。
ヤコブは信仰の必要を認めた上で、当然それに伴う行い(努力)も必要であることをはっきり示しています(ヤコブの手紙2章14~26節参照)。
自分の意思や力だけで努力するのではなく、まず神の力添えを受けつつ努力するのです。何もしないで何かを得られるなどということはありません。
神は私たちに力を貸してくださり、より正しい、より良い、より確実なことを示され、実現へと導いてくださいます。

意思と感情
私たちが自分の意思を正しく用いるためには、冷静で客観的な視野が必要です。感情をかき立てると、冷静な判断を妨げてしまい、自己中心的になり、善悪の見極めが困難になってしまうことがあります。場合によっては、善悪が自分の感情によって左右され、決定されることもあるのです。しかし、感情は必ずしも悪いものではありません。喜怒哀楽は神が私たちに備えてくださったものであり、思いを表現する良き手段であります。感情によって行うのではなく、意思によって感情をコントロールする必要があるのではないでしょうか。

必要な犠牲と忍耐
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイによる福音書16章24節)。

犠牲:私たちが離れなければならないのは、罪であり悪です。離れるために私たちは、自分の意に反して何かを捨てなければならなかったり、諦めなくてはならなかったりします。それらの犠牲によって、迷わす者の声に心奪われる危険が軽減され、神のみ旨に関心を寄せ、神との距離を確認することができるのです。神のみ旨を探りつつ、祈りと御言葉によって確信が与えられるその時、私たちの意思の力が試されているのです。

忍耐:ヤコブの経験は私たちの良き模範です。ヤコブは兄の家に帰る際、暗闇の中で何者かに襲われました。格闘しながら相手が神の使いであることを認識したとき、彼は必死になってすがりつきます。股関節をはずされ激痛の中にあっても、痛みに耐えながら必死ですがりついたのです。そのようにすがりつけと神は私たちを求めておられます。この世にあって、私たちには(試練が伴う)苦労が多くあります。しかし神は、その痛みの先に必ず勝利を与えると約束してくださっているのです。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。

*聖句は©️日本聖書協会

久保司/くぼつかさ

1961年高知県高知市生まれ。1987年より牧会者として献身。現在、東京中央教会、金町教会、大胡集会所、前橋集会所牧師。東日本教区牧師会長、東京東地区長。

アドベンチスト・ライフ2024年10月号