「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」(使徒行伝2章42節、口語訳)。
ここに誕生したばかりのエルサレム教会が大切にしていた四つのポイントが挙げられています。
「使徒たちの教えを守り」とは説教や聖書研究を指すと言ってもいいでしょう。「信徒の交わりと祈り」は、そのまま理解できるでしょう。「共にパンをさく」というのは現代でいう聖餐式にあたります。共にパンをさくという行為が聖餐式の中心であったということです。この表現は使徒行伝に3回出てきます。共にパンをさくということが、キリストを信じる教会にとって大切な行為であったことがうかがわれます。
聖餐式のとき、牧師さんや長老さんが前でパンをさきますが、これは聖餐式の大切な部分です。手間を省くために、あるいは時間を節約するために最初から切り分けておきましょうということではダメなのです。なぜなら、それは私たちの罪がキリストの体を引き裂いたという現実を表現しているからです。
私たちは教会としてこの罪の現実を体験しています。私たちはそこで引き裂かれる側であり、引き裂く側でもあるのです。苦しむ側でもあり、苦しめる側でもあります。そして、私たちの罪がキリストの死をもたらしたことを認めるのです。その引き裂かれた体の一部を食すことにより、私たちはキリストにあって罪を赦され、受け入れられ、再び引き裂かれたものが回復していく過程に入れていただいたことを確認するのです。パン自体に効能があるのではなく、兄弟姉妹が共に罪を告白してパンをさき、また再び共に食することによって、聖霊により赦しと回復の過程を追体験していくのです。その過程はお互いの足を洗うことから始まっています。だからこそ洗足式は聖餐式の一部であり、切り離すことはできません。
バーチャルでは本当の聖餐式はできません。お互いに汚れた足を洗い合うことによって表現されている、お互いの罪や過ちをキリストのゆえに許し合う行為が欠けているからです。信徒の交わりも、そのお互いの許し合いの中で成り立ちます。そこに教会はたちます。そのような生々しい、いわば汚い部分を欠いたバーチャルな綺麗事だけでは、リアルな愛と慰めは出てきません。罪人である我々がイエス・キリストに救われ、受け入れられたがゆえに、兄弟姉妹をお互いに受け入れ、許し合っていく。そこに聖霊に導かれた教会のリアルが存在しています。私たちはお互いにキリストの名のゆえに愛し合っていくのです。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ2024年3月号
教団総理 稲田 豊