リバイバルという言葉があまり好きではありません。教会の中では時折、当たり前のように使われる言葉です。「教会のリバイバルのために」。これは、今まで幾度となく聞いてきた言葉であり、自分自身も言ったことのある言葉です。
「真の敬虔が私たちのうちにリバイバルされることは、すべての必要の中で最大の、最も急を要することです。これを求めることが、私たちの第一にしなければならないことです」(『真のリバイバル』10ページ)。
今年の2月に西日本教区牧師会が開催されましたが、事前に『真のリバイバル』を読んでからご参加くださいとご連絡がありました。その第1章の最初に書かれているのが前記の言葉です。第一にしなければならないことだそうですよ。では、私たちはこれを第一にしているでしょうか。そもそもリバイバルとは何でしょうか。なんとなく、この言葉を発してしまってはいないでしょうか。少なくとも私はそうです。
死んでいるから?
リバイバル(revival)とは、皆様もご存知の通り、「re(再び)」と「生きる」を意味するラテン語「vivere」を組み合わせた言葉で、「復活、復興」を意味する言葉です。では、リバイバルが必要なのはなぜでしょうか。それは、死んでいるからです。私たちは死んでいるのです。
しかし皆さんは、そう聞いて素直に、「その通りです。私たちは死んでおり、私たちの教会は死んでいるのです」と思われるでしょうか(強烈な表現で申し訳ありません)。
「いえいえ、そんなはずはありません。私たちはセブンスデー・アドベンチスト教会です。聖書の預言に記された通り、再臨前の最後の時代の残りの民です」と思われるでしょうか。
このようなことを思い巡らせながら、なぜ自分がリバイバルという言葉が嫌いなのかがわかってきたように感じました。私は、口ではリバイバルが必要であると言います。教会にはリバイバルが必要だと語ります。しかし、私自身が死んでいるということを認めたくないのです。口では、自分にもリバイバルが必要だと言います。あからさまに、「私にこそリバイバルが必要だ」と。しかし、その語る言葉を実行に移してはいないのです。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイによる福音書7章21節)。
脳裏にイエスのこの言葉がよぎります。この「主よ、主よ」と言っているだけの者が私ではないかと……。これは、山上の垂訓(マタイによる福音書5~7章)の終わりのほうで語られた言葉です。そしてこの後は、有名な「家と土台の話」で締めくくられますが、このお話もやはり、イエスの言葉を聞いて行う者と、聞くだけで行わない者のお話です。
リバイバルという言葉も、口に出すだけなら何の意味もありません。むしろ害悪だと理解すべきです。覚悟のない者が簡単に口にするべき言葉ではないのだと思います。
敬虔とは
そして、このリバイバルとは、「真の敬虔」が私たちのうちに復活することであると書かれています(『真のリバイバル』)。「敬虔」、普段あまり使わない言葉です。この言葉も、私は今まで漠然と語っていたように思います。本当にすみません。
「敬虔」と訳されている言葉は、「godliness」という英語です。「god」と「liness(~のような、特定の性質や状態)」という二つの言葉の組み合わせだそうです。つまり、「敬虔」とは「神のような性質」、「神聖」などとも訳すことのできる言葉と言えるそうです(間違っていたらすみません)。
そして、私たちのうちに神のような性質が復活することがリバイバルなのかと考えているとき、次の証の書と聖書の言葉が思い出されました。
「神のかたちにかたどって形成された品性は、この世から来たるべき世界に持って行ける唯一の宝である。この世で、キリストの教えを受けたものは、その身につけた神の性質を全部天の住居に持っていくのである。そして、天では絶えず成長する。であるから、この世で品性を形成することは、非常にたいせつなことである」(『キリストの実物教訓』30
7ページ、『希望への光』1315ページ)。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイによる福音書5章48節)。
イエスと同じ生き方
私はこう思いました。再臨前の完全な品性について議論されているということ自体が、この最後の時代の神の導きなのではないかと。なぜなら、この議論によってイエスのご品性に目が向けられているなら、それは聖霊の神のお働きだと思うからです。聖霊の神はいつでも私たちにイエス・キリストを指し示します。
また、個人的な感想ですが、再臨前の完全な品性については、議論によって終わるものではないと思います。最終的には、自分が聖書と証の書から得た生き方を実践するかどうかで、その実によって見分けがついていくのではないでしょうか。
私たちにとって最大の必要であり、最も急を要する第一のこと─イエスのご品性に目が向けられる状況─を聖霊の神が作ってくださいました。心から感謝いたします。それは同時に、私たちが聞いて行う時が来ているということです。おそらく人類史上最もイエスに目が向けられる時代が、この再臨直前の時代です。十字架によって私たちの罪を負われたイエスが、今度は私たちを救うために戻って来られるのです(ヘブライ人への手紙9章28節参照)。
その再臨に先立って、イエスと同じ生き方をするのが、この時代の残りの民だということですよね。ですので、私の思うリバイバルとは、「聞くだけ、言うだけで行わない者」から、「聞いて、言うことを行う者」へ再創造していただくことです。
どうぞ神様、私をイエス様のようにならせてください。
*聖句は©️日本聖書協会
仲泊大輔/なかどまりだいすけ
三育学院カレッジ神学科2015年度卒業。
現在は、神戸有野台教会、西宮教会、三田聖書研究会を担当。趣味は、妻の無表情を写真に収めること。
アドベンチスト・ライフ2025年4月号