前教皇ベネディクト16世は2007年に、「プロテスタント諸教会は本来の意味での『教会』とは言えない」と明言した文書を承認し、多くのプロテスタント教会が抗議の声をあげました。しかし、従来からカトリック教会の教会観は一貫しており、別に驚くことではありません。彼らから見れば、プロテスタントは本家から家出した子どもたちなのです。合同するとしたら、家出した子が謝って家に帰るだけです。
文書は、プロテスタントが教会でない理由を二つあげています。まず使徒継承がないことです。カトリック教会は、初代の使徒たちから途切れることなく聖職者が任命(叙階)されてきた「使徒継承」を持っていると主張しています。特に初代教皇とされるペテロに与えられた天国の鍵が大切とされます。教皇の持つこの権能を正式な叙階により分与された司祭たちは、神に代わって罪の赦しを与えることができます。これを「ゆるしの秘蹟」と言います。これを行うことのできないプロテスタントは、教会とは言えないのです。
もう一つの理由は、聖体の秘蹟を行えないということです。司祭が祝福することで、パンとぶどう酒の本質がキリストの体と血に変わります。これを聖体変化と言います。パンはキリストの体である聖体となり、信徒の体内に注入されます。これは、人が救われるためには欠かせない部分なのです。それが欠けているのだから、プロテスタント教会は教会ではないというのです。
しかし、私たちは聖書を通して、プロテスタントは本来の教会の姿に立ち返ろうとしていると理解します。地上の制度化された教会が、天の聖所の大祭司イエス・キリストの働きに成り代わってしまったことは、ダニエル書8章13節の言葉が示している事態なのです。
「わたしは一人の聖なる者が語るのを聞いた。またもう一人の聖なる者がその語っている者に言った。『この幻、すなわち、日ごとの供え物が廃され、罪が荒廃をもたらし、聖所と万軍とが踏みにじられるというこの幻の出来事は、いつまで続くのか』」(新共同訳)。
この問いかけへの答えはこうです。
「彼は続けた。『日が暮れ、夜の明けること二千三百回に及んで、聖所はあるべき状態に戻る』」(同8章14節、新共同訳)。
この2300の終わりである1844年以来、神はセブンスデー・アドベンチストを通してこの天の至聖所にいる大祭司イエスに立ち返るように呼びかけています。天の至聖所の大祭司イエス・キリストは、罪に悩む魂のために、その扉をすべての人々に開いてくださったのです。これが聖所回復の働き、清めの働きです。
セブンスデー・アドベンチストは、人類救済の神のラストコールを委託されています。だから、世界に大きな声で叫ばねばならないのです。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ2025年5月号
教団総理 稲田豊