私たちの弱さを思いやるイエス
がんを患って余命宣告を受けた緩和ケア医の話を聞いたことがあります。自分自身が病を負ったことで、患者さんへの接し方や対応が大きく変わったと言います。自らが同じ立場になることで、より深く患者さんのことを理解し、思いやることができるようになったからです。
彼らのうちに住むため
イエスは、私たち人間と同じ姿となるためにこの世に来てくださいました。使徒ヨハネはそのことを、「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(ヨハネによる福音書1章14節)と記しています。
この「宿る」という言葉には、「幕屋を張る」という意味があります。モーセの時代、神は民に幕屋を建設することを命じました。その目的は、「わたし(神)が彼らのうちに住むため」(出エジプト記25章8節)でした。幕屋(聖所)は、神と民が出会う場所、神が民と共にある場所だったのです。
その幕屋で日々、民の罪の贖いのための犠牲が奉げられました。聖所は、実際にはその名称に反して血の匂いが絶えることのない場所だったのです。その犠牲と血は、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)であるイエスの十字架の死と血を指し示していました。幕屋において、この日ごとの儀式を司ったのは祭司です。
聖書の時代、神と民との間に立って大切な役割を担った二種類の人々がいます。預言者と祭司です。預言者は不在の時がありました。しかし、祭司が不在となった時はありません。人間の罪に寄り添い、それをとりなす働きをした祭司は常に民と共にいたのです。
幕屋を張るために受肉されたイエスは、私たちの罪を贖うために十字架による犠牲の死を受けてくださいました。そして、その死から復活されたイエスは、今、大祭司として天にある真の幕屋なる聖所で仕えておられるのです。(ヘブル人への手紙8章2節参照)
御子を持つ者
使徒パウロはこう記しています。「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル人への手紙4章14~16節)。
何と力強く、励ましに満ちた言葉でしょう。「わたしたちには、……大祭司なる神の子イエスがいますのである」の原文の意味は、「私たちは大祭司なる神の子イエスを持っている!」です。使徒ヨハネは、このことを、「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(ヨハネの第一の手紙5章11、12節)と説明しています。私たちは信仰によって大祭司なるイエス様を持つ者となったのです。既に永遠の命を持っているのです!
私たちが持っている大祭司なるイエスは、「罪は犯されなかったが、わたしたちと同じように試練に会われた」ので、「わたしたちの弱さを思いやること」がおできになります。ここで使われている「思いやる」という言葉は特別な言葉です。この言葉には、「苦しみを共にする」という意味があります。
イエスは、私たちの弱さと苦しみを、ご自身のものとして共に経験してくださっているのです。その上で私たちを思いやり、助けようとしておられるのです。イエスの「思いやり」は、そこまで深いものなのです。イエスによって、神と私たちとの間を妨げる罪はすでに取り除かれています。私たちは信仰によって、いついかなる時にもはばかることなく恵みのみ座に近づくことができます。そして、時宜にかなった助けを受けることができるのです。
失われた恵みが回復する時
エレン・ホワイトは次のように記しています。
「信仰の耳は、イエスのみ声が、『恐れるには及ばない、わたしがあなたといっしょにいるのだ』と言われるのを聞くことができる。……わたしは、あなたの悲しみに耐え、あなたの戦いを経験し、あなたの誘惑に会った。わたしはあなたの涙を知っている。……あなたは、自分が打ち捨てられた孤独な人間だと思ってはならない。この地上にはあなたの苦しみを心の琴線に感じてくれる人がなくても、わたしを見、そして生きなさい」(『各時代の希望』中巻358、359ページ、文庫版)。
このようなあわれみ深い大祭司イエスが、今も生きてとりなしてくださっていることに感謝したいと思います。それだけでなく、イエスに倣って、私たち自身もとりなす者になりましょう。そして、一人でも多くの方に、このあわれみ深いイエスを伝えたいと思います。
イエスのご再臨の時は近づいています。使徒ヨハネは幻のうちにその光景を見せられました。新しい天と新しい地が、神のもとを出て、天から下って来るのを見たのです(ヨハネの黙示録21章1、2節参照)。
そして、御座から大きな声が叫ぶのを聞きました。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録21章3、4節)。
罪のゆえに、人間は顔と顔を合わせて神と共にある恵みを失いました。しかし、神は幕屋の制度を通して、常に私たちと共にいてくださったのです。そして、イエスがご再臨されるとき、エデンで失った恵みが回復するのです。「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住む」という預言が、その時に完全に成就するのです。その時はもうすぐです。この望みを握って、イエスのご再臨を待望したいと思います。
*聖句は口語訳を使用
*聖句は©️日本聖書協会
稲田 勤/いなだつとむ
1966年京都に生まれ、台湾で育つ。ブラジルで2年間学生宣教師を務める。三育学院神学科卒。フィリピンの大学院で修士課程修了。妻との間に2男1女。著書に、『もし初めから終わりを見通すことができたなら』(福音社)がある。
アドベンチスト・ライフ2025年2月号