セブンスデー・アドベンチスト教会

神のみ手の中に

神のみ手の中に

「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(ルカによる福音書10章1、2節)。

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(マタイによる福音書9章35~38節)。

危険な祈り
3年間の教えと指導の後、イエスは自分が天に上げられる時が近づいていることを知っていました(ルカによる福音書9章51節参照)。それゆえ、彼は72人を収穫のために送り出しました。この宣教は、十二弟子が送り出された場面(同9章1節)と密接に関連しています。十二弟子と同様に、この72人も自分の持ち物を持たずに、備えたもう神に完全に依存するように指示されました。違いは、この72人がイスラエルの十二部族を象徴する弟子たちを超え、全世界の国々を象徴していることです。この特別な派遣を通じて、イエスは彼らをさらに広い異邦人の宣教に準備させようとしたのです。
72人はまた、サマリアに送られた使者たちとも関連があります(同9章52節)。どちらの場合も、彼らはイエスより先に送り出されました(同10章1節と9章52節を比較)。彼らはエリヤやバプテスマのヨハネのように、イエスの一歩先を歩き、神の王国の到来に備えていました。彼らは「狼の中の小羊」のごとく(同10章3節)送り出されました。彼らには前途多難の旅が待ち受けていましたが、危険を顧みずに進まなければなりませんでした(同9章62節)。それは神からの力と権威によるものでした。

ここでイエスは重大な問題を指摘しています。すなわち、福音を受け入れる準備ができている人々は多いが、それを収穫するための働き手が不足しているということです。重大な問題には、それを超えるような解決策が必要です。イエスは「収穫の主」に熱心に祈り、働き手をもっと送り出すようにと言います。これは、神が最終的に収穫と働き手の提供を掌握していることを認め、神のご介入を求めるものです。しかし、祈りは他の働き手を求めるだけでなく、祈る者自身をもその働き人となることを示しています。自分がその答えの一部になる覚悟がなければ、この「危険」な祈りをしてはなりません。あなたはイエスの祈りの答えとなり得るからです。

イエスの憐れみが原動力
マタイによる福音書9章35、36節は、イエスの活発な宣教活動を強調しています。彼は広範囲にわたって旅し、教え、説教し、いやしを行いました。彼の行動は、「弱り果て、打ちひしがれている」人々に対する深い憐れみを反映しています。この描写は、人々への養いと導きの必要性を強調しています。この箇所はまた、イエスの憐れみが彼の宣教活動の原動力であることを示しています。この憐れみは、私たちがイエスの視点で世界を見て、応答するように促すものです。
この宣教は、「送る」という言葉に二つのギリシア語が使われています。ルカによる福音書10章1節の「αποστελλω(アポステロ)」は、大使として権威を持って送り出されたことを意味します。2節の「εκβαλλω(エクバロー)」は、「追い出す」「投げ出す」という意味があり、石を放り投げられるかのように弟子たちが送り出されたことを示しています。この場合、すべては「投げる」主イエスの手に委ねられています。すべての源は主イエスであり、私たち自身には権威はなく、私たちは主イエスを代表して立ち、主のために働く存在なのです。
この話はまた、神の召しと宣教の性質についての深い神学的洞察を明らかにしており、神の救いの計画が全人類に及ぶことを示しています。この包括性はルカによる福音書の中心的なテーマであり、イエスがユダヤ人だけでなく、全世界の救い主であることを描いています。
また、何も持たずに出かけるようにという指示は、神への完全な信頼を教えています。これは物理的な必要だけでなく、霊的な力にも関わります。72人は、備えたもう神の守りを直に経験し、その信仰が強められました。
「狼の群れに小羊を送り出」される、という表現は、福音を伝える環境が攻撃にさらされた状態を示しています。リスクのない宣教はありえません。迫害や反対に直面することもあります。しかし、それは神の力と権威を信じ、困難に耐え、宣教を遂行する力を得る機会でもあります。イエスの弟子として、私たちは神の宣教に忠実であるためにリスクを取るように招かれています。

「わたしをお遣わしください」
この話は、私たちに自分自身の宣教について考えるよう促しています。すべてのクリスチャンは、国内外のどこであっても、神の働きに参加する方法を考えさせられます。収穫の多さと働き手の少なさは、今日の教会にとって行動を求める呼びかけです。神の召しに応え、献身いたしましょう。
たとえどこへ導かれるか知らされていなくとも、私たちは神のみ手の中にあります。彼が私たちに何をさせたいのか、どこへ行かせたいのかに関して、完全に主に委ねるのです。主のご計画であれば、たとえ未知の境遇に放り投げられても、私たちの唯一の応答は、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ書6章8節)なのです。

*聖句は©️日本聖書協会

ユーリ・グラマショ

ブラジル教団の牧師、世界総会派遣の宣教師。来日前の5年間はモンゴル、ウランバートルで奉仕。現在、教会開拓者として、MUTのプログラム・ディレクターを務めている。妻のライースはブラジルで理学療法士、カウアイ(10歳)とカエル(7歳)という2人の息子と都心に住む。異文化研究、言語習得に強い情熱を持っている。

アドベンチスト・ライフ2024年7月号