セブンスデー・アドベンチスト教会

獄中からの賛美

獄中からの賛美

主と一つにされる祝福へ

十字架の血潮もて我さえ贖い、
神の子としたもう、恵みの主をほめん。

父なる神の聖名が崇められますように。主こそ真の、偉大な、愛に満ちた、誠実な羊飼いです。我らは、その牧場に招き入れていただいた弱き羊です。感謝します。主イエスの十字架の犠牲、流された血潮により、今この時も我らを贖ってくださり、神の子としていただいている大いなる御約束を、信じ、おすがりし、感謝します。我らは主のものです。主が聖霊により、我らのすべてとなってくださいますように。
さて、主はこう言われます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書15章5節)。
主は、とても分かりやすいこの譬えを用いて、私たちがどうすれば祝福されるのかを教えてくださいました。「わたしにつながっていなさい」。主との生きた絶えざるつながり、主との親密な交わりが私たちには必要です。
聖霊は使徒パウロを通して、このメッセージをさらに詳しく説明しています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピの信徒への手紙4章4~7節)。

力を得、憩う

パウロとシラスが初めてフィリピの町で宣教したときのことでした。女奴隷から占いの霊を追い出したところ、彼女を通して金を儲けていた主人たちが怒り出し、二人を訴え出て高官たちに引き渡し、高官たちは取り調べもせずに鞭打ちの刑に二人を処し、牢獄につながれるということがありました。
当時の鞭打ちの刑で使われていた鞭には、先端に金具が取り付けられていて、ピシッと一発当てれば引っかき傷ができる、そのようなものであったようです。40回当てられれば死んでしまうと言われていたほどの恐ろしい刑でした。そのうえ、牢獄では二人の足には足枷がはめられていました。冷たい石の床に座らされ、身動きすることもできません。
同じような苦しい目に遭ったとしたら、私たちはどうするでしょうか。うめき声は、きっと当たり前。そして恐らくは泣き叫ぶでしょう、「神様、ひどいじゃないですか! 私が一体何をしたっていうんですか」と。
ところが、聖書には驚くべきことが記録されています。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(使徒言行録16章25節)
そして、大地震が起きて牢の戸が全部開き、不思議なことに囚人たちの鎖も外れてしまいます。看守は囚人たちが逃亡したと思い、絶望し、自殺しようとしました。すると、牢の奥から「自害してはいけない! わたしたちは皆ここにいる」とのパウロの叫び声が……。看守は本当に驚いたことでしょう。このことがきっかけとなり、看守とその家族は悔い改めに導かれてバプテスマを受け、神の家族に加わることになりました。
非常に教訓的な出来事です。パウロとシラスが痛みと苦しみの中にありながらも、賛美を歌って祈っていたということが、とても重要なことのように思われます。もしも二人が、うめき声をあげ、文句を言っていたなら、看守と家族が救われるということは起きなかったに違いありません。
二人はきっと普段から賛美を歌い、祈ることにより力を得、キリストの内に憩う体験をしていたことでしょう。だからこそ、この苦しい場面にあっても賛美を歌い、祈ることができたのではないでしょうか。何が力であり、どうしたら憩うことができるのかを彼らは知っていたのです。そして聖霊が力強く働いてくださり、看守と家族の救いに結びつけてくださいました。

イエスと一つになる

聖霊は語っています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。私たちもこのような生き方を身に着けたいものです。どのような出来事に遭遇しても、常に喜んでそれらの出来事を受け止められる、真の生きたクリスチャンでいさせていただきたいものです。そして、神が起こそうとしておられる救霊の御業に結びつけていただける者として歩みたいものです。
それでは、そのような生き方を身に着けるには、一体どうしたらよいのでしょうか。
『キリストへの道』には、このように書かれています。「恵みに成長することも、私たちの喜びも、人のために役立つこともみな、キリストと一つになるか否かにかかっています。恵みに成長するのは、毎日、毎時、彼と交わり、彼のうちにとどまることによります」(97ページ、改訂第3版文庫版)。
パウロとシラスは、確かにイエスと一つにされることのすばらしさを知っていました。だからこそ、そのために必要な賛美と祈りを絶やすことをしなかったのです。もちろん、み言葉に根差して生きることも大切にしていたはずです。
私たちは、どうでしょうか。主と一つにされて生きることを心から日々願っているでしょうか。その価値をどれほど理解しているでしょうか。
世の終わりであろうとなかろうと、大切なことはいつでも大切です。いたずらに諸事件に振り回されることなく、これからも聖霊のお導きを祈り求めて、イエスと一つにされて行動したいと思います。そのために、み言葉を瞑想すること、賛美の歌を歌うこと、祈ることを通して、イエスの内に憩うことを大切にしていきたいと思います。そして、神が私たちを御心に適った道へと、さらにお導きくださいますように。

*聖句は©️日本聖書協会

平田和宣/ひらたかずのり

1961年東京生まれ。青春期に自己制御不能となり、その経験を通してキリストとの出会いを体験。病院事務を経て牧師へ。任地歴:釧路、東京中央、西巣鴨、徳島、高知、名古屋、広島に至る。趣味:子どもたちと遊ぶこと、賛美すること。

アドベンチスト・ライフ2024年9月号