『使徒たちの幻を追って』の最終章で、著者ピーター・ローエンフェルト氏は、教会における消費主義の影響について語っています。
本来教会とは人々のことであるはずですが、今は、場所、礼拝堂、礼拝の時間、組織を指す言葉になりがちです。そこではすべてが比較の対象になります。注目すべきは買い手の期待です。このチャーチショッピングで選ばれないといけない売り手である教会は、買い手の期待に応えようとします。選ばれる教会になるために一生懸命頑張ります。そのために牧師も教会員も疲れてしまっているケースが少なくありません。売り手は店長である牧師、店員である教会役員。買い手は訪れるお客さん。これはあまりに単純化した極端な描写かもしれませんが、まったく的外れでもないと思います。
初代教会には買い手も売り手もありませんでした。ピーター先生は、「彼らは集会を持ち、彼ら自身が教会だったのです」と言っています。
現代の教会とはかなり違います。彼らには専任の牧師はいませんでした。決まった礼拝様式もありませんでした。教会堂もありませんでした。彼らの家に集まったとき、彼らが教会になるのです。今でも英語では会衆に「チャーチ!」と呼びかけます。「今日私たちは教会だったね」という言い方もします。これは本来的な表現だと思います。そこには、「私たちは今、聖霊に呼び出されてキリストの体なる教会にされたのだ」という認識が確かにあるのです。
私たちにあって、初代教会になかったものがほかにもあります。それは新約聖書です。当時はまだ作成途上にありました。彼らが聖書と呼ぶ場合、それは旧約聖書でしたが、羊皮紙の書物はとても高価で、旧約聖書全巻を揃えられる教会はそう多くはなかったはずです。彼らは手元に聖書がないぶん、御言葉を豊かに心に宿らせたのです。
子どもが繰り返し同じ物語をせがむように、彼らは飽きることなく、イエス・キリストの生涯とその贖いの死、復活と昇天、聖霊降下、教会の誕生と宣教の拡大、その愛と救いの驚くべき物語を語り継ぎました。そこには説教も聖書研究も必要ありませんでした。福音の偉大な物語が暗唱され、語り継がれるときに、聖霊が豊かに働きました。それが教会でした。そして彼ら自身が聖書だったのです。文字となった書物がない分、教会自身が聖書となりました。それが初代教会の力の秘訣だったのだと考えます。
「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイの信徒への手紙3章16節)。
このパウロの言葉は、私たちに初代教会の集会の有り様を彷彿とさせてくれます。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ2024年7月号
教団総理 稲田 豊