人は、恵みによって救われます。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―」(エフェソの信徒への手紙2章4、5節)等と書かれているとおりです。
では、自分が救われるのは恵みによるとして、他の方々を救いに導く宣教については、どうでしょう。やはり恵みによって伝道するのでしょうか。それとも、クリスチャンの働きが他の人を救うのでしょうか。
恵みの定義
恵みの定義を考えてみます。それは、「受ける価値のない者が無償で受けること」だとしばしば言われます。恵みを受け取った人は、自分が努力したからとか自分に能力があるからとか、思わないのです。恵みというのは授かりもので、もったいないほどの豊かさを一方的な恩寵によって与えられています。たとえば太陽。人の創意工夫によって造られたのではありません。あるいは聖書。人間を超えた神の霊感によって書かれたものです。それからキリストの十字架。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマの信徒への手紙5章8節)と書いてあるように、人の罪にもかかわらず成し遂げられた御業です。それらは恵みであります。神に由来するものはすべて恵みだと、私は思います。
では、聖霊については、いかがでしょう。私たちは恵みによって聖霊を受けるのでしょうか。それとも祈りへの報酬として支給されるのでしょうか。祈りへの応答だとしても、その祈りは、だれが教えてくださったのでしょうか。もちろん祈りでさえ、神なる主からの賜物です。はい、祈りも聖霊も、どちらも恵みです。神に由来することは、すべて恵みなのです。
宣教は恵み
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1章8節)。主イエスが天に挙げられる直前、弟子たちに語られた有名な御言葉です。イスラエルから見るならば日本は地の果て海の果てで、他の場所での伝道と同様に日本でも、キリストが証しされるためには、聖霊が降らなければなりません。宣教は主なる霊の働き、恵みの霊によって成し遂げられる神業です。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章18~20節)。これも、主が言い残された言葉で、大宣教命令と呼ばれます。この中では、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」などが注目されることが多いようですが、その前の「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから」こそが重要だと私は感じています。
私たちが福音を伝えるために出て行くのも、多くの人々が主の弟子として召されるのも、「王の王、主の主」(黙示録19章16節)であるキリストの権能に由来しております。主に権威がある。だから、だから宣教が実現します。宣教は恵み、救いも恵み、徹底的に恵みです。それでも私たちが伝道に携わる目的は、宣教の場で主によって顕わされる救霊の御業を目撃し、恵みを恵みとして受け入れさせていただくことに他なりません。全能者は、仮にも伝道者がいなくても人々を救いに導くことができるでしょう。しかし、福音による救いの御力を私たちが体験し、恵みと権威とに満ちた主なる神との交わりを深めるためには、宣教の現場―トラクト配布でも、聖書を教えることでも、祈りでも―に居合わせることが最適なのです。
教会は恵みの現場
イエスがラザロをよみがえらせた場面に目を向けましょう。すでにラザロは墓に葬られています。「人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです』」(ヨハネによる福音書11章41、42節)。
イエスが御父に祈られたのも、ラザロを復活させたのも、周りにいる群衆が主ご自身を信じるようになるため、いわば宣教が目的でありました。人々が信じるために、主イエスは御業をなされるのです。では、人々はどう感じるでしょうか。墓穴の前の石を自分たちが移動させたからラザロが生き返ったと思うでしょうか。石を動かした自分たちの功績で死人が復活したと考えるでしょうか。いいえ、違いますね。彼らは信じるのです。それは主の恵みであり、死にも打ち勝つ権威によって恵みの御業が顕わされたと悟り、恵みを示されたお方を天来のキリストだと信じるようになるのです。そして恵みを恵みとして明瞭に理解できるためには、石が取り除かれる現場に身を置くに越したことはないのであります。
私たちが救われたのは、ひとえに恵みによります。そして他の方々を救いに導くのも、同じく主の恵みによります。教会は恵みの現場です。多くの人が救われる瞬間を見せていただける宣教の最前線こそ、真の教会です。ご自身で石を動かすことぐらい簡単にできるお方は、恵みが示されるのに妨げになっている石を取り除けるよう私たちに語られます。恵みの御業を、宣教の現場で私たちにお見せになりたいからです。主イエスの願いをいつも聞いてくださる父なる神は、恵みの御言葉に聴き従う私たちの前で、必ず約束を果たされます。そこで栄光を拝見する備えが、私たちには整っているでしょうか。
*聖句は©️日本聖書協会
眞田 治/さなだ おさむ
仙台教会、青森南教会、一関聖書研究会牧師
アドベンチスト・ライフ2021年1月号