セブンスデー・アドベンチスト教会

嵐の中でただ主を見つめよ

嵐の中でただ主を見つめよ

「嵐ではなく、ただ私だけを見つめなさい」。嵐の海でキリストが手を差し伸べながらこう言っている絵を見ました。"Focus on Me, Not the Storm" 嵐におびえて海に沈むペトロに向けての言葉でしょう。私たちは、嵐の日にはとかく荒れる波風に気を取られ、キリストへの集中を忘れがちです。そしてうろたえおびえるのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(マタイによる福音書1431節 ©️日本聖書協会)。キリストはすべての主の主、王の王です。そのお方がすぐそばに共にいてくださるのに、私たちは襲い来る嵐を恐れるのです。

「われわれも、苦難におそわれるとき、ペテロのようになることがどんなに多いことだろう。われわれは、目を救い主にそそがないで、波をみつめる。われわれの足はすべり、もりあがった波がわれわれの魂の上を越える。……海上での出来事を通して、イエスは、ペテロに彼自身の弱さを示そうと望まれた。すなわち彼の安全は、たえず神の力にたよっていることにあることを示そうと望まれたのである。試みの嵐のさなかにあって、彼は、まったく自分にたよらずに、救い主によりたのむときはじめて安全に歩むことができるのであった」(『各時代の希望』中巻、160161ページ、文庫判)。

ペトロは、この経験を通して信仰者として目覚め自立したのではありません。再び嵐の中で信仰を失うのです。キリストが捕らえられたあの木曜日の夜、彼は彼の主を知らないと否定するのです。キリストの逮捕、裁判、その先の処刑、彼は混乱と恐怖の嵐の中でうろたえます。キリストから目をそらし、彼を問い詰める人々へと彼の視線はさまようのです。しかし、キリストの心は彼と共にありました。ペトロが三度目にキリストとの関係を否定したときに、キリストは振り向いて彼を見つめられたのです。その視線に、ペトロは打たれました。

繰り返し、キリストから目をそらし、嵐に目を奪われる弱きペトロをそれでもキリストは見捨てません。ゲツセマネの園で祈ることを怠って眠りに落ち、キリストを裏切ったペトロが初代教会のリーダーとして用いられていくのです。復活のキリストに出会って、使命を与えられたペトロは、キリストから目を離すことは二度とありませんでした。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。……身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(ペトロの手紙一・47節、589節 ©️日本聖書協会)。

新型コロナウイルスという嵐の背後でもう一つの風が静かに吹き始めました。この風がやがて嵐になるのかどうか、ローマカトリック教会の主導でさまざまな動きが始まっています。しかし、私たちが注目すべきは嵐ではなく、その背後の力でもなく、私たちの唯一の救い主であり主であるイエス・キリストであることを覚えましょう。キリストはいま私たちに何を望んでおられるのでしょうか。何を祈り、何をなし、どこへ向かうことを望んでおられるのでしょうか。ただキリストだけを見つめ、キリストと一つとなり、目を覚まして祈っていきたいと思います。主の日は近いのです。

アドベンチスト・ライフ
2020年8月号
教団総理 島田真澄