セブンスデー・アドベンチスト教会

実りをもたらす汚い飼い葉桶

実りをもたらす汚い飼い葉桶

「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(コリントの信徒への手紙一・9章19~23節)。

パウロは律法に支配されていませんでしたが、イエス・キリストに救われた喜びのうちに自由に律法に従っていました。ただパウロは律法が誰かの救いの妨げになってはならないと考えました。律法がイエス・キリストのもとに行く道の妨げになってはならないのです。福音のためなら、福音が誰かに届くためならば、私はどんなことでもする。そう彼は言いました。
イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と弟子たちに言われました。弟子たちが子どもたちを連れてきた親たちを叱って追い払おうとしたからです。子どもを連れてきている親とその子どもたちは、あなたの教会で歓迎されていると感じなければなりません。イエス・キリストの教会なのですから。私たちはまた、やんちゃな霊的幼児たちも歓迎します。「律法を守れるようになったら、またおいで」とは言いません。「大人になったらまたおいで」と子どもたちに言ったりしないでしょう。

子どもたちが来る教会は騒がしいでしょう。同じように霊的な子どもたちがやってくる教会も、問題が起きて騒がしいでしょう。しかし、そこでこそ聖霊が働いて、みんなが共に成長させていただけます。私たちは自分ではもう大人だと思っているかもしれませんが、イエスの目から見たら、みんなまだまだ未熟な子どもです。だからパウロは、「人々をなんとしてでも救おうとするのは、自分もともに福音にあずかるようになるためだ」と言っています。イエスのもとに集められ、そこで私たち皆を成長させていただける、その福音の偉大な力、恵みの力にともにあずかるのです。

箴言には、「牛がいなければ飼い葉桶はきれいだが、実りもない」とあります。牛たちのおかげで、子どもたちのおかげで汚くうるさい教会にこそ、豊かな実りがもたらされます。

*聖句は©️日本聖書協会

アドベンチスト・ライフ2024年10月号
教団総理 稲田 豊