今の時代は、仕事や学校が終わって帰宅しても、職場や学校の問題がスマートフォンによって家にまでついてくるようになりました。ですから、神との交わりの時間を意図的に予約し、工夫して作り出さなければなりません。神が提供してくださった安息日を守れない状況は、神と私たちとの絆を薄いものにしてしまいます。
エジプト支配下のイスラエル人
かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民がエジプトから救出されたのは、おもにこのような理由です。「ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」(出エジプト記3章18節)。ある注解書では、「ファラオを怒らせないように、それとなくお願いをした」と書かれていましたが、それは真実ではありません。祭りを行うことや、主に犠牲をささげることには、ちゃんとした意味があるからです。
「イスラエル人は、奴隷になっている間に、神の律法の知識をかなり見失い、その戒めから離れていた。安息日は、一般に無視され、作業を監督する者が不当に彼らを働かせたので、安息日が守れないことは明白であった。しかし、モーセは、神に従うことが救いの第一条件であることを、神の民に明らかに示した。こうして彼らが、再び安息日を守ろうとしていることが、圧制者たちに知られるようになった」(『人類のあけぼの』上巻397ページ、文庫版)。
時間を聖別する安息日
イスラエルの民がエジプトから脱出する理由には、安息日が大きく関係しています。イスラエルの民には休みの日がなく、異教の影響を受けていました。また安息日を守れない環境に置かれたことで、彼らが真の神から離れてしまっていたのが問題でした。
神はモーセとアロンを遣わして、「わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ」とファラオに告げますが、ファラオは妥協案を示します。「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」(出エジプト記8章21節)。これだけでもありがたい話のように聞こえますが、モーセは、「そうすることはできません」とはっきり言い返します。真の神に仕えるために邪魔になる環境なら、そこから出る必要があります。私たちも、安息日には世の煩いから出る必要があります。
安息日は、時間を聖別するものです。「聖別」とは、神の特別の目的のために取り分けることです。「安息」を意味するヘブライ語の「シャバット」は、「やめる」「離れる」という意味があります。「やめよ。知れ。わたしこそ神」(詩篇46篇10節/新改訳)。神が神であられると知り、神と交わるために、私たちは時間を聖別し、意識的に日々の働きや学びをやめる必要があります。
あらゆる罪からの脱出
その後、ファラオの示す妥協案は、行っていいのは男だけ、妻子はいいが家畜は残せなどと少し変わってきます(出エジプト記10章11、24節)。民をエジプトから完全に去らせたくないのです。モーセは、「何も残さず出ていく」と言い返します(同25、26節)。ファラオが示した妥協案も良さそうに見えます。しかし、本当の意味で神に仕えるためには、妥協案を受け入れるわけにはいきませんでした。
真の意味で神に仕え、神との関係を結ぶために、時間からの脱出、場所からの脱出、仕事や学びからの脱出が必要です。また、私たちが抱える思い煩いからの脱出、私たちを縛るあらゆる罪からの脱出が必要です。真の神との交わりによって、本来人間がどのように生きるべきなのか、どこに人生の土台を置くべきなのかを知るためです。そのために神は安息日を、私たちのために定めてくださいました。そして、私たちを罪に縛りつけているものから完全に脱出させるために、切り札を用意されたのです。
脱出の切り札──贖いによる犠牲
神は、傷のない小羊を屠り、その血を家の入口の柱と鴨居に塗りなさいと言われました(出エジプト記12章3~7節)。「過越の祭り」の始まりとなった出来事です。神がエジプトの国中の初子を撃ってエジプトに裁きを下されますが、小羊の血が塗られた家には裁きを下さないというもので、この日は記念すべき日となりました(同12~14節)。
傷のない小羊は、罪なき神の子イエスを指しています。小羊が屠られることは、イエスの十字架による死を、小羊の肉を食べ、その血を家の柱と鴨居に塗ることは、イエスの死が私たちの罪のためであると受け入れることを意味しています。
「過越の小羊はほふられるだけでは十分ではなく、その血を柱に注がなければならなかった。そのように、キリストの血と功績は魂にも適用されなければならない。われわれは、キリストが死なれたのは世のためばかりではなく、われわれ一人ひとりのためであることを信じなければならない。われわれは、贖いの犠牲の功績を自分のものとしなければならない」(『人類のあけぼの』中巻11、12ページ、文庫版)。
安息日を守る理由
かつてエジプトで、家の2つの柱と鴨居に小羊の血が塗られている家だけが神の裁きを免れたように、イエスによる罪の赦しを受け入れた者には、イエスと共に生きる恵みが与えられています。安息日はそのしるしです(エゼキエル書20章12節)。イスラエルの民はこの出来事を通して、エジプトからの完全な脱出には小羊の犠牲が伴ったことを知り、それを受け入れた人は神の裁きを逃れることができました。
これは、罪からの完全な脱出にはイエスの十字架の犠牲が必要であること、そして、イエスの十字架の犠牲を受け入れることが必要であることを教えています。ですから、安息日は「贖いの記念日」と呼ばれます。これによって、私たちは罪から完全に脱出させられ、神との交わりのために与えられた安息に入ることができるのです。私たちが安息日を過ごすのも、イエスの十字架なしではあり得ません。安息日を守る理由は、神が私たちを罪から完全に脱出させるために、イエスの十字架の犠牲によってそれを達成されたことを記念し、これからもそのことを忘れないようにするためであり、神との交わりに生き続けるためです。
私たちを罪から完全に脱出させるために、神がなされた大いなる業を心から感謝したいと思います。私たちと交わり、深い関係を築くために、イエスが今日も、私たち1人ひとりを招いてくださることを感謝し、その招きに応える者でありたいと思います。
*聖句は©️日本聖書協会
松本裕喜/まつもとゆうき
三育学院カレッジ神学科卒業後、米国の日本語補修校三育東西学園で3年間勤務。帰国後、各地の教会で務め、現在、京都教会、びわ湖教会、伊賀上野聖書研究会の牧師。
アドベンチスト・ライフ2021年2月号