セブンスデー・アドベンチスト教会

土を耕す

土を耕す

岐阜教会の青年会では、農地を借りて、たくさんの野菜を育てています。青年たちの健康意識は高く、たくさんの野菜を収穫する感動と喜びを味わっています。自分の手で土を耕し、種を蒔き、育て、収穫する。実は、これは人間が創造された初めから、神が人間に与えられた祝福に満ちた働きなのです。

耕す

「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2章15節)。

「耕す」という言葉は、もともと「奉仕する」という言葉から来ています。エデンの園では、何もしなくても、食べることに不自由しなかったかもしれませんが、神は人に奉仕させることで、より幸せな毎日を送ることができるようにされたのです。考えてみますと、人間以外の動物が土を耕し、種を蒔き、育て、刈り入れることはありません。人間だけが種から育て、その実りの収穫を喜んだり、花の美しさを楽しんだりすることができるのです。おそらく主は、さまざまな植物を通し、神の創造の業と命の神秘に触れさせようとお考えになったのでしょう。

ところが、私たち人間にとって、そのように非常に意味のあるものとして創られた植物が、罪のために一変してしまったことが聖書に記されているのです。

罪のゆえに

「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵ちりにすぎないお前は塵に返る』」(創世記3章17〜19節)。

ここに、アダムとエバが罪を犯したために、土が呪われ、茨やあざみが生えてきたと記されています。そのため種蒔きから収穫まで、本当に苦労の伴うものになってしまったのです。
また、さらに読み進めていきますと、創世記3章23節に、「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」と書かれてあります。まるで神は、罪を犯した罰として、人をエデンの園から追い出し、額に汗しながら土を耕させ、苦労して作物の実りを収穫しなければ生きていくことができないようにされたかのようです。また、耕すべき土を、「自分が取られた土」とあえて付け加え、人間が土くれにすぎず、全く弱く無力な存在であることを意地悪く言っているかのようです。
しかし、果たしてそうなのでしょうか。神はそのような意地悪な方なのでしょうか。この一連のみ言葉の中には、何かもっと深い意味が含まれているように感じるのです。

それでも希望を

注目しなければならないのは、罪の結果、土が呪われてしまったわけですが、それでもなお、土に種を蒔けば、芽を出し、成長し、豊かな実を実らせるという事実です。罪の結果、土が本当に呪われてしまったのなら、種を蒔いても二度と芽を出さないのではないでしょうか。確かに、収穫までの過程で、多くの苦労が伴うものとなりました。しかし、それでも、ちゃんと命を芽吹き、成長し、美しい花を咲かせたり、私たちの命の糧を実らせたりするのです。
この事実の中に、私たちは主の赦しを見るのです。主は、罪が赦されるということを、自らの手で植物の命を育てながら感じ取っていけるようにして下さったのです。額に汗して土を耕さなければならない現実は、確かに私たちに自分の罰の深さを知らしめます。しかし、やがて美しい花や豊かな実りを見て、私たちは大きな感動と喜び、そして罪を赦されて、いつの日か、神のみもとに返ることができるのだという希望を持つことができるのです。
私たちはそれぞれの人生において、それぞれの土を一生懸命耕しながら生きます。土を耕すというのは、生きるということの象徴でもあります。人生には苦しいこともたくさんあることでしょう。しかし、その中で、神の命に触れる瞬間や感動もあるはずなのです。
そのとき、土くれに過ぎないこの私を、命がけで愛して下さっている主なる神がおられることを知るのです。

キリストも一緒にエデンの園を出られた

キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書15章5節)と言われました。私たちがキリストといつもつながっているために、キリストはいつも私たちのそばにいて下さいます。
そこで気づかされるのは、エデンの園を出たのは人間だけでなく、キリストも一緒に出て下さったのだということです。主は、罪を犯したからといって、決して私たちを遠くに一人ぼっちで追い出されたのではないのです。主ご自身も一緒にエデンの園を出て下さったのです。私たちといつも一緒にいて下さるために。私たちがいつも主とつながっているために。そして、永遠の命の実を実らせるために。
そのように理解するならば、「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」というみ言葉の中にも、神の愛と福音が隠されていることを知るのです。

*聖句は©️日本聖書協会

村沢秀和/むらさわひでかず

鹿児島教会インターンからスタートし、丸亀教会、秋田教会、長野教会、札幌教会、神戸有野台教会を経て、現在名古屋教会にて牧会35年目を迎えました。南は鹿児島から北は札幌まで、全国各地の教会でご奉仕させていただけたことは、何よりの幸せに感じています。いま、名古屋教会において、毎週10か国以上のアドベンチストの方々と共に礼拝を捧げています。

アドベンチスト・ライフ2025年8月号