その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
(マルコによる福音書4章35~41節)
あなたの快適な場所から踏み出しなさい
“Stepping out of your comfort zone”
(あなたの快適な場所から踏み出しなさい)
これは以前参加した研修で、講師の先生から贈られた言葉です。神様はしばしば人間に快適な場所から踏み出すことをお求めになります。神様はアブラハムに、「父の家/生まれ故郷を離れて/わたしが示す地に行きなさい」とお命じになりました(創世記12章)。イエス様は弟子たちに、「わたしについて来なさい」「わたしに従いなさい」と呼びかけられました(マタイによる福音書4章、9章)。
快適な場所から出て行くことには困難が伴います。「向こう岸に渡ろう」というイエス様の言葉は、「あなたの快適な場所から踏み出しなさい」という私たちへの呼びかけの言葉でもあります。
三育中学校で学ぶ生徒たちにとって、それぞれの家を離れて寮に入るということは快適な場所から踏み出す経験です。新しい環境になじめず涙することもありますが、いつしかそこが自分の居場所になり、3年間の学びを終える時にはまた違う涙を流して次のステップに巣立っていきます。快適な場所から踏み出すことは私たちを成長させ、新しい視点を与えてくれます。
責任者はイエス様
弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と言われたのはイエス様でした。イエス様が言い出されたことですから、イエス様が責任をもってくださいます。「イエスは、ご自分に従うようにわれわれを召しておいて、そのあとでわれわれを捨てるようなことをなさらない」(『希望への光』866ページ)。不安の嵐にのみ込まれそうになるとき、「私の人生の責任者はイエス様である」ことを思い出すことは、私たちに平安をもたらします。
「にもかかわらず」
弟子たちはイエス様の言葉に従って船出し、イエス様と同じ舟にいたにもかかわらず、ひどい嵐に遭いました。これはしばしば私が犯してしまう失敗なのですが、神様のお導きによって始めたはずなのに、困難に直面するとすぐに、「これは間違いだったのではないか」「神様のみこころではなかったのでは」と神様を疑ってしまうのです。しかし、「嵐に遭遇したこと」=「船出が間違いだった」ということではありません。彼らはイエス様の言葉によって出発し、イエス様と共にいたにもかかわらず、嵐に遭ったのです。
聖書の中で、しばしば「舟」は教会の象徴だと言われます。「教会なのに何でこんなことが…?」教会生活の中でそんな経験をすることがないでしょうか。今まさに教会に傷つき、教会から離れたくなるような辛い時を過ごしている、という方がおられるかもしれません。教会でそのような経験をするのは本当に悲しいことです。しかし、弟子たちは嵐の中で舟から降りようとはしませんでした。彼らは舟の中にとどまり、イエス様に助けを求めました。
本心をイエス様に注ぎ出す祈り
ある生徒がこんな話をしてくれました。「ぼくには誰にも言えない悩みがあります。でも、神様にはそれを打ち明けることができます。ぼくはどんな時にも、神様に自分の本音を注ぎ出す祈りをささげたいと思います」
彼の話を聞きながら、心が洗われるような思いにさせられました。嵐の湖の上で、弟子たちは体面を取り繕うような余裕はもはやありませんでした。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)という彼らの言葉は、決してきれいな言葉ではありません。イエス様に対する疑いの臭いさえする言葉です。しかし、それは偽りのない彼らのありのままの本心でした。私たちの祈り、神様に本心を注ぎ出す祈りに変えられていくのは、嵐の経験を通してなのかもしれません。
もう一度イエス様に出会う経験
イエス様が嵐を静められたとき、弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と口々に言いました(41節)。彼らはイエス様のことを他の誰よりもよく知っているはずでした。しかし彼らは、イエス様を自分たちの限られたイメージの中に閉じ込めてしまっていたのです。例えば、「イエス様は人々の心を打つようなすばらしい説教をされるお方ではあるけれど、嵐の湖を静めることまではできないだろう」という具合にです。この「いったい、この方はどなたなのだろう」という言葉に彼らの驚きがあらわれています。
嵐の湖の上で、彼らはもう一度イエス様と出会いました。それは、彼らが今まで抱いていたイメージをはるかに超越するイエス様のお姿でした。「快適な場所から踏み出す」ことは、私たちを神様とのより深い出会いの経験へと導きます。
「望みの港に」
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと
主は彼らを苦しみから導き出された。
主は嵐に働きかけて沈黙させられたので
波はおさまった。
彼らは波が静まったので喜び祝い
望みの港に導かれて行った。
(詩編107編28~30節)
神様がご自分の民を導いてくださることを、聖書は繰り返し約束しています。嵐の中で目的地を見失い、途方に暮れることがあるかもしれません。しかし、どんな困難があったとしても、私たちを最終的に「望みの港」へと導いてくださる神様によりすがりつつ、信仰の旅路を最後まで歩み通したいものです。
*聖句は©️日本聖書協会
伊藤滋/いとうしげる
三育学院中学校チャプレン、三育学院教会、北浦三育教会牧師
三育教職員の両親のもとに生まれ、小学校・中学校・高校・短大・カレッジで三育教育を受け、1995年4月に牧師インターンとしての働きにつく。現在、三育学院中学校チャプレン・三育学院教会・北浦三育教会牧師。
アドベンチスト・ライフ2020年10月号