セブンスデー・アドベンチスト教会

ハンナたちへの訴え

ハンナたちへの訴え

「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。 そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません』」(サムエル記上1章10、11節)。

神の民の歴史には最初から不妊の悩みが付きまといます。神が約束されたはずの子孫が現実には与えられない……。アブラハムとサラがそうでした。イサクもヤコブもそうでした。私たちも不妊の悩みを知っています。魂が救われ、バプテスに導かれる出来事が教会に起こらないとき、私たちは不妊に悩みます。子どもたちが信仰を継承しないように見えるとき、私たちは悩みます。教会や私たちの教育機関で子どもや若者の姿が減っていくのを見るとき、私たちは痛むのです。
ハンナには子どもがいませんでした。夫エルカナはハンナを愛していましたが、子どもをたくさん産んだのはもう一人の妻ぺニナでした。年に1回の聖所詣ではハンナにとって最も苦しい時です。子どもの数で供え物の分配が決まるので、不妊の事実をあらためて突きつけられるのです。神の前に出る礼拝が喜びでなく苦痛になるという倒錯が起きてしまいます。ぺニナはハンナを苦しめます。私たちも信仰の喜びを失い、自尊心を失い、羨望に悩み、自分を責めたり兄弟姉妹を責めたりするかもしれません。しかし聖書はただ一言で状況を総括します。

「彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた」(サムエル記上1章5節)。

主が胎を閉ざされたのです。夫はハンナを愛しましたが、どうにもなりません。主がなされたことに対して人はなすすべがありません。ハンナがいくら夫に訴えても自分を責めても環境のせいにしても、埒があきません。主が道を閉ざされたのですから、ハンナは主に訴えるしかありません。実際彼女はそうしました。その結果、後の大預言者サムエルは誕生したのです。
私たちの教育機関の生徒・学生募集のために祈る多くのハンナたちが今、日本各地で与えられています。感謝します。特に神学科と看護学科は、卒業後すぐに伝道の最前線に立つ、主の働きの後継者を直接育てています。そのために特別の祈りを捧げていただけないでしょうか。神の民の子を求める祈りとは、「あなたご自身の救いの業を私の代で断ち切らないでください」という叫びなのです。主はその叫びを聞かれます。

*聖句は©️日本聖書協会

アドベンチスト・ライフ2023年10月号
教団総理 稲田 豊