しばらく前から若い女性の間で「タピオカ」という謎の飲み物が流行している。謎、と言ったのは、なぜそれが若い女性層に好まれているのか、ぼくには理解できないからだ。もっともキャピキャピした女性の好みは元来理解し難い。真冬に短いスカートを履くなどの行為に象徴されるように、彼女たちの心は、時に聖書の家系図よりも難解なのだ。
その中でも特にタピオカ人気は解せない。知らない人のために説明すると、タピオカとは芋由来のデンプンを直径一センチほどの球体に練り、それをミルクティーに大量投入することで出来上がる激甘飲料である。
要するに水増しなのだ。氷で水増しされたミルクティーには目くじらを立てるくせに、芋で水増しすると歓迎されるのか。だったら最初から芋だけ食っとけ、とは口が裂けても言えないので、今日も黙って妻のタピオカ代を支払った。忍耐こそ聖書の美徳だと自らに言い聞かせて。
タピオカの最大の動機
以前、「おいしいね~」と言いながら、タピオカの写真を撮っている女子高生たちを見た。その時に覚えた妙な違和感。なんというか、「おいしそうに」飲んでいるようには見えなかったのだ。「本当はまずいくせに、写真撮って自慢したいだけだろ」と決めつけているわけではない。さすがにそこまで偏屈じゃない。ただ、もっとしっくりくる表現があるような気がしたのだ。例えば、楽しそう─とか。
思うに、彼女たちがタピオカを購入する最大の動機は「味」ではなく、「経験の共有」なのだろう。注文に迷い、友人と盛りつけやパッケージで盛り上がり、撮影し……という一連の過程から連想される喜びの経験。タピオカ屋に並ぶ客のほとんどがグループなのは偶然ではない。
なるほど、タピオカとは単に飲料の一種を指す言葉ではないのだ。飲料という要素は、タピオカの一面に過ぎない。真のタピオカとは、そこから連想されるすべての経験─一連の「出来事」とそこから生じ得る「喜び」の共有─を描く言葉なのだろう。もしそうなら、ぼくがこれまで持っていたタピオカ理解はあまりにも浅く、一面的であったことを認めざるを得ない。自らに恥じ入るばかりである。
正しい信仰の限界
タピオカについて言いたいことはまだまだある。が、このまま終わると苦情が出そうなので、ぼくの妄想に読者を付き合わせてしまったことを謝罪しつつ、信仰に関する一つの問いを発したい。
「クリスチャン」という響きから、ぼくたちは何を思い浮かべるだろうか。個人的な感覚で構わない。クリスチャンという生き方を形容するとき、あなたはどんな言葉を連想するだろうか。
聖書を学び始めたある人に同じような問いを投げかけたとき、「正しさ」という答えが帰ってきたことがある。決して嬉しい評価ではない。そこには「正しくあろうと必死になっている人たち」という皮肉めいた含みがあった。間違いを恐れて正しさという檻に閉じこもっている滑稽な、あるいは偽善的な人種。それが「正しさ」という一言に連想されるクリスチャン像だったのだ。
これは昔話でも異国の寓話でもない。むしろ、ぼくたちのような現代の信仰者に対する痛烈な批判であり、誰もが陥りかねない「信仰の罠」に気づかせる貴重な視点─そう受け止めたい。
タピオカを飲む人は「正しいから」そうしているわけではないだろう。最大の動機が味であれ経験の共有であれ、そこには喜びがある。しかし信仰の選択においては、「正しさ」が最大の動機となってしまうことが多々あるように思う。
信仰の歩みには「正しいことをする」のを重視するあまり、「なぜするのか」を後回しにする誘惑が常に潜んでいる。土曜日の朝、9時に教会の席に座っていればひとまず安心。什一を聖別し、お惣菜から豚と小エビを一匹残らず駆除できればなお良し。というような、正しさを一つずつクリアしていくこと自体が目的化した信仰の姿勢を、ぼくは他人事だと言い切れない。
「正しさ」に比重を置く信仰は、「なぜそうするのか」という問いかけや疑問を後に追いやり、いずれは億劫という闇に葬ってしまう。そうして「なぜ」を失い、行う動機より、行うという正しさが優位に立つとき、信仰の歩みは遅かれ早かれ、負いきれない重荷になっていく。
なぜ自分はクリスチャンなのか、なぜ自分はクリスチャン的な生き方に留まるのかということについて、ぼくたちは恐れずに問い直し、問い続けていかなければならない。
出会うために問い直す
確かに、聖書は正しさを教えている。でも、それがキリストに従う最大の動機となることはないし、なるべきでもない。信仰という響きから何を連想するか。もし「喜び」や「自由」より、「義務」や「正しさ」が先行するような人がいれば、タピオカでも飲みながら、じっくり聖書と自分自身に向き合ってほしい。主は必ず出会ってくださる。
聖書は信仰の動機を問い直す大切さを訴え、そのもがきがもたらす喜びを次のように描いた。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロの手紙1・1章8節)。
信仰とは本来、世界一前向きな言葉なのだと思う。そこにあるのは、すべての痛みを覆うほどに美しい賛美。キリストにある力強い関係性。死も奪い去ることのできない喜びなのだから。皆さまが主にある喜びに日々出会えるように、心から祈りたい。
ちなみに、妻はタピオカがおいしかったと、めちゃくちゃ喜んでいた。何よりだ。
*聖句は©️日本聖書協会