弟子としての成長
弟子とは何でしょうか。辞書では「弟や子のように師に従って教えを受ける人」と説明されています。弟子という存在には、教える人と教えられる人の関係があります。現代においても、「職人」と呼ばれる職業の中では師弟関係が築かれていることがあり、師匠の才能や技術、人柄など、さまざまな要素に魅力を感じ、「この人のようになりたい」という思いに駆られ、弟子入りをします。
では、聖書の教える「弟子」とはどのようなものでしょうか。12人の弟子を選ばれたとき、イエスはまず自分のそばに置き、その後、宣教に派遣しています。
「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ」(マルコによる福音書 3章14節)
弟子たちは、イエスのそばで過ごすことによってイエスへの理解や信頼を深めていくことになります。聖書の教える弟子とは、イエスへの信頼を学び、信仰を育み、イエスによって回復や救いを経験する人々のことです。日々聖書を読み、祈り、瞑想し、イエスとともに過ごす時間を持つとき、私たちはイエスの弟子としての習慣を身につけることができます。いかに多くの時間を〝イエス様との交わり〟に費やすかが弟子としての成長のポイントです。
「神の知識と愛をより深く知り、恵みの中で成長することは、あなたがたの特権です。キリストとの親しい交わりを保ち続けるなら、それを楽しむことが特権なのです」(『神の驚くべき恵み』292ページ)
弟子として成長する特権、そしてそれを楽しむ特権が与えられています。この特権を無駄にすることのないように、私たちはどのように生きることができるでしょうか。
世の光として
聖書はイエスのことを「光」と表現します。人々の道標として進むべき道を指し示してくれるような光です。そしてイエスは、私たちもそのような光になりなさいと語っておられます。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。……そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイによる福音書5章14、16節)
人々は私たちの行いを見て、その先に神の姿を見ることになります。「自分自身を通して神様を示すことができているか」、そのような問いかけがなされています。世の人々を神のもとへと導くことが、私たちに示されている弟子の働きのひとつです。
もうひとつ、私たちには大切な働きが与えられています。世の光として人々を導くこと、その先にある働き、それは〝新たな弟子をつくる〟という働きです。
新な弟子をつくるために、イエスは〝ともに過ごす〟という方法を模範として示してくださいました。人々に対して愛と義をもって接するイエスの姿を見て、弟子たちの心は動かされ、そして弟子として成長していきました。イエスに出会い、イエスを知り、イエスのようになろうとする歩みが弟子の姿です。そこからさらに、学んだことを実践し、主にある体験を人々と分かち合うということが求められています。教えを実践し、体験を分かち合うことで、私たちは新たな弟子をつくることができます。すべての人がこの働きに携わることができます。
私たちの使命は、神とひとつになって、世界中に福音を宣べ伝えるということです。それぞれの教会において、キリストの弟子一人ひとりに責任が与えられています。直接的な働きだけではなく、さまざまな形で伝道に携わりたいと思います。
弟子になるということ
弟子になることは、私たちに多くの祝福をもたらします。
①目的ある人生の喜び
私たちは、神によって造られたことを知り、神の働きに加わる使命を持ち、永遠の命を得るという目的に向かって生きています。神に出会うことで生きる目的を得た弟子は、大きな喜びのある人生を送ることができます。
②無条件に受け入れられる喜び
神は私たちのことをどんなときでも愛してくださり、いつも気にかけてくださるお方です。たとえ神の道から逸れることがあったとしても、決して突き放すことはせずに、愛を持って正しい道へと導いてくださいます。その愛に触れ、愛の中で生きるとき、私たちは喜びを感じることができます。
③キリストと神の友になる喜び
弟子になるということは、単なる主従関係ではなく、神の友として歩む関係です。従って歩むのではなく、共に歩む関係性への変化は、私たちに大きな祝福と喜びをもたらします。
④いやしと休息、回復の喜び
自分の弱さを知り、それを神のもとへさらけだすとき、神は私たちに回復と成長の恵みを与えてくださいます。無力な罪人である私たちが、神の御心を行う者へと変えられていく喜びがあります。
⑤永遠の命とそれ以上の喜び
今の私たちには想像もできないような、すばらしい祝福が約束されています(マタイによる福音書19章29節)。永遠の命だけではなく、それ以上に大きな祝福です。その祝福を受けるとき、私たちは言葉にはできないような大きな喜びにあずかることができます。
キリストの弟子、それはキリストと出会い、心を打たれ、キリストに従いたいと心の底から願う熱い気持ちを持つ人のことです。イエスを師と仰ぎ、従い、共に歩むのであれば、私たちは「あらゆる点において成長し」(エペソ人への手紙4章15節、口語訳)、やがてイエスのような品性を手に入れることができるようになります。
「イエス様ならどうなさるのか」。そのような問いを常に抱きつつ、神の御心を果たしていきたいと願っております。
*聖句は©️日本聖書協会
廣前早輝人/ひろまえさきと
長野県出身。1994年生まれで現在30歳、牧会3年目。愛する妻と4歳になるわんぱくな長女、6月に生まれたばかりのかわいらしい次女の4人家族。趣味はツーリングとキャンプ。現在は奥間教会と名護教会を担当。
アドベンチスト・ライフ2024年8月号