私たちの最大の模範
有名なお話の中に、靴屋のマルチンというお話があります。ある町に「マルチン」という名の靴屋が住んでいました。
マルチンは毎日一生懸命靴づくりに励みました。そんなある日、マルチンは聖書を読みました。そこに書いてある神様のことばに安らぎを覚えていきます。すると、彼は夢の中でイエス様の声を聞きました。「マルチン、明日行くから待っておいで」とイエス様が言われたのです。
翌日、マルチンは雪かきをしている年とったおじいさんに気がついたので、声をかけました。疲れたおじいさんは、マルチンの部屋で温まり、元気になって帰っていきました。それから、寒い外で赤ちゃんをあやしているお母さんを助けました。その人は貧しくて空腹なうえ、冬なのに夏服を着て凍えそうだったのです。そこでマルチンは、温かい部屋で食事をご馳走し、上着もあげました。その後、窓の外で、少年とお婆さんが言い争う声が聞こえました。マルチンは二人の仲裁に入り、二人は歩み寄り、お互いに気持ちを通わせて帰っていきました。
その晩、マルチンが聖書を読んでいると、イエス様の声がしました。
「マルチン、私がわからなかったのか?
あれはみんな私だったのだ」と。
イエス様は「貧しい人、病気の人や家のない人の中に私はいます」と、聖書を通して言われます。
この話はマタイによる福音書の25章31節から作られたものです。
ご存じだった方も多くいらっしゃったのではないでしょうか。マルチンのように困っている人に手を差し伸べることは簡単なことではありません。今、目の前の人を助けてあげたほうがいいとわかっていながら、「他の人がやればいいや」「次の予定があるから急がないといけない」など、一瞬のうちに幾つかの言い訳を考えてしまうことがあるのではないかと思います。私自身悔い改めることが多くあります。皆さんはいかがでしょうか。
マルチンは架空の人物ですが、私たちの最大の模範はイエスです。
イエスの足跡
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)。
イエスはすべての人を救うためにご自分の命を犠牲にして、私たちを助けてくださいました。このことを知っているだけではなく、日々、そのことを感じていただきたいのです。それができたとき、私たちは自然とイエスに近づくことができます。
「すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている」(ヨハネの第一の手紙4章7節、口語訳)。
自分を中心として歩んでいくとき、私たちは愛することができません。自分以外のためにすべてをかけられたイエスを知っていきたいと思います。イエスがあなたにしてくださったことを思い返すとき、私のためにイエスが自分自身を犠牲にされたように、私も誰かのために自分を犠牲にしようと思えるようになっていくのでしょう。
では、どのようにイエスのことを知ることができるのだろうかと考えたことはありませんか。聖書の時代の人たちは、神の声を直接聞くことができ、イエスと直接会うことができ、実際にイエスを見て触ることができた。今の私たちはどのようにイエスのことを知ればよいのだろうか。そう考えるのです。もちろんその方法は一つではありません。聖書から、自然から、イエスを知ることができます。確かに私たちはイエスに直接会うことはできません。ですが、助けを必要としている人の中に、また、慰めを必要としている人の中に、イエスの足跡を見いだすことができるのです。地上にいるとき、イエスがされたとおりのことをすることによって、私たちはイエスに会うことができます。
ですから、私たちはいつでもイエスの足跡を歩むことによってイエスを知り、出会うことができるのです。それがイエスのような生き方につながっていきます。
何のために
そのためのヒントが聖書にあります。
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書15章12節、口語訳)
この愛し合う関係が成立したとき、イエスから私たちに与えられた使命が果たされるのです。現代の社会を見ると、多くの人が自分のために生きています。自分が誰かに認められるため、自分の好きなものを飲み食いするために働き、お金を稼ぎます。自分のことばかりを考え、自分のことだけのために生きている人が多くいるのです。あなたは何のために生きているでしょうか。
このみ言葉を読むとき、「誰かに親切にしないといけない」と感じてしまいませんか。もちろん、そのとおりです。ただ、そのように考えて行動してみると、「私はこれもしましたし、あれもしました」とイエスに訴えたくなってしまうかもしれません。しかし、イエスのために生きようとするとき、人は高慢な心は取り去られ、偽善的な思いが消え、イエスの心で人々に接することができるようになります。それこそが、イエスの恵みと力です。このことに心から感謝しています。
神によってのみ、私たちは愛し愛される関係を築くことができます。 自分のためではなく、イエスのために歩んでいくことのできるあなたであることができるように祈っています。
*聖句は©️日本聖書協会
津村聖/つむらしょう
高知県出身、25歳。
三育学院カレッジ卒業。
任地:米子教会、松江集会所、西郷集会所。
アドベンチスト・ライフ2024年11月号