「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう」(黙示録22章12節)。
「信じます」
私がまだアドベンチストの教会員ではなかった頃、看取りケアの現場で働いていました。命の灯が静かに消えようとしている方々と向き合う日々の中で、私は「生きるとは何か」「死とは何か」、そしてその先に何があるのかを、患者さんとともに考えるようになりました。
そんなある日、一人の患者さんと出会いました。彼は長年、仏教の信仰を大切にしてこられた方でした。しかし、亡くなる数日前、クリスチャンである奥様の熱心な働きかけとお導きによって、イエス・キリストを心に受け入れ、信仰告白をされました。しかし、その瞬間に至るまでには葛藤がありました。「自分は仏教を信じている」という強い思いがあり、体力が徐々に衰えていく中で、彼の心には不安と恐れがあったのです。そんな彼に、奥様がそっと耳元で語りかけました。
「神様はあなたを愛しておられます。イエス様を信じて。天国に行きましょう」
すると彼は、小さな声でこう答えました。「信じます」。その顔はとても穏やかで、静かな安らぎが満ちていました。彼は、その数日後に、平安のうちに眠りにつかれました。
確かな希望
この出来事を通して、人生の終わりに救い主と出会い、永遠の命を受け取る人がいる、そのことの尊さに、私は深く心を打たれました。人々がこの世に希望を見いだそうとしても、死という現実の前では、すべてが儚く見えることがあるかもしれません。しかし、キリストにある者には死を超えて、なお続く永遠の御国に向かう確かな希望が与えられているのです。なんという幸せなことでしょうか。
再臨は、単なる将来の約束ではなく、今を生きる私たちにとって、主と共に生きる意味と希望を根底から支える確かな真理なのです。この約束は、私たちが目の前の出来事に振り回されることなく、天を見上げて歩み続けるための光です。
聖書ははっきりと語っています。「しかり、わたしはすぐに来る」(黙示録22章20節)。
イエス・キリストが繰り返し語られたみ言葉は、私たちが日々、どこに目を向け、どのように歩むべきかを教えてくださっています。しかし現代の多くの人々にとって、「神様」や「天国」という言葉は、どこか非現実的で遠いもののように感じられるのかもしれません。私たちは、日々の忙しさや情報の波に飲み込まれ、「今」だけに心を満たすことに目がいき、心が奪われているという現実があるようです。そして、やがて来る「永遠」への備えが後回しにされています。
しかし、私たちがこの地上で得られるものは、一時的なものでしかありません。財産も名誉も、この身体さえも、永遠には続かないのです。しかし、キリストにある希望は決して失われません。むしろ、死を超えて、真の命へと私たちを導いてくださるのです。
住まいを備えておられる
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネによる福音書14章1~3節)。
年を重ねていく中で、私たちは大切な人たちとの別れを何度も経験するようになります。どんなに信仰があっても、やはりそれは悲しく、辛いことです。しかし、主が私たちのために住まいを備えておられるというみ言葉は、私たちの心を励まし、慰めます。
今、世の中は不安や混乱に満ちています。だからこそ、今必要なのは本気でイエスを見つめ、求めることではないでしょうか。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(ヘブライ人への手紙12章2節、新共同訳)
主を見つめるには、私たちは日々、み言葉に親しみ、心に刻む必要があります。聖書を読み、証の書から恵みを得て、信仰の経験を通して主に従おうとするとき、 大きな助け手である聖霊が、イエスの愛を、より深く理解できるように教えてくださいます。そして、自分の心にある、思いわずらいを完全に主の御前に委ねるとき、信仰を揺るがないものにしてくださいます。しかし、真理に立とうとするとき、サタンが数々の困難を来らせることでしょう。それでも、心を尽くして求めるとき、神は万軍の天使をつかわして私たちを必ず守ってくださいます。
あなたが見つめるもの
今、あなたの心はどこを見つめていますか。地上の富、人間的な成功や評価、目に見える結果に心を奪われてはいないでしょうか。それとも、御国を見上げ、永遠を求める信仰の旅路を歩んでいますか。
私たちは、主の再臨を待ち望む者として、み言葉に従い、主の僕として選ばれています。神の器として、イエスのもとへ人々を導く案内人となるように召されています。
「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」(ヘブル人への手紙10章37節)。
主が「よくやった、忠実なしもべよ」と栄光の冠を授けてくださるその日を心から待ち望みつつ、信仰の火を絶やさずに、間近に迫る再臨の日に備えて、人々を永遠の命へと導く証人となれるように、祈り進んでまいりましょう。
マラナ・タ われらの主よ、きたりませ!
*聖句は口語訳聖書を使用
*聖句は©️日本聖書協会
橋本美絵/はしもとみえ
藤枝教会、静岡教会、焼津集会所牧師。
アドベンチスト・ライフ2025年6月号