セブンスデー・アドベンチスト教会

すべての民、すべてのコネ

すべての民、すべてのコネ

福音社から革新的な本が昨年末出版されました。ピーター・ローエンフェルト著『使徒たちの幻を追って―初代教会に学ぶ弟子づくりと教会づくり』です。いくつもの胸に刺さった言葉がありました。例えば、「彼ら(初代教会の教会員)は教会に行ったりしませんでした。そうではなく、彼ら自身が教会だったのです」という記述です。そこでは生活の場である家庭と教会の分離はありませんでした。それは家の教会(オイコス)だったのです。
コンスタンティヌスのキリスト教公認以後に家の教会は公の教会堂(バシリカ)に取って代わられていきました。そして聖餐式は愛餐(信徒の食事会)と分離させられて、公の儀式となりました。以前は信徒の食事と聖餐は切り離されておらず、女性が中心的な役割を果たしていたのです。この分離の結果、儀式の司式は男性長老、男性牧師が独占されるようになったという著者の指摘は注目に値します。著者はさらに大宣教命令を新たな視点から見直すように促します。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイによる福音書28章19、20節)。
ここに出てくる「すべての民」の民は原語のギリシア語では「エスネー」といいますが、このエスネーは「人間のつながり」という意味も含んでいるのです。ですからこの言葉は、「すべての人間関係、すべてのつながり」とも理解できるのです。そうなると抽象的な「すべての民」ではなく、あなたが繋がっているすべての人という意味になります。イエスは私たちが繋がっているすべての人、すべてのコネに伝えるように促しています。

現に使徒行伝に描かれる爆発的な伝道進展は、聖霊の導きのもとに人の繋がりを次々と結びつけていった結果なのです。使徒たちも建物や組織や方針に縛られずに自由に聖霊の導きに従っていった結果、あれだけのことが起こったのです。
ここで当初述べた家の教会(オイコス)としての教会のあり方が威力を発揮します。いわば無所有の教会ですから、実に身軽です。土地にも財産にも縛られることなく、人と人のネットワークが繋がって自由にどんどん増殖していくのです。
本書を読んでいますと、コンスタンティヌス以来の制度化された教会がいかに障害になってきたかがわかってきます。そして初代教会を動かしていた聖霊による人と人のコネクションの原点に戻りたいという思いにさせられるのです。

*聖句は©️日本聖書協会

アドベンチスト・ライフ2024年2月号
教団総理 稲田 豊