セブンスデー・アドベンチスト教会

顔に汗を流してパンを得る、これは罪の罰なのか!?

顔に汗を流してパンを得る、これは罪の罰なのか!?

顔に汗を流してパンを得る、これは罪の罰なのか!?

「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る』」(©︎日本聖書協会 創世記3章17~19節)。

苦労して土を耕す

アダムとエバが罪を犯したために、土が呪われ、茨やあざみが生えてきました。おそらく天地創造の最初の世界では、土は苦労して手入れをしなくても、いつも良い状態であり、良い作物や花々をどんどん産み出していたことでしょう。その土が呪われてしまったとは、苦労して土を手入れしなければ、良い作物も実らなくなってしまったということです。

土が悪ければ良い作物が実らないことを、農家の方はよく知っています。だから種を蒔く前に、一生懸命土作りをするわけです。それは、人は「顔に汗を流してパンを得る」と書かれてあるとおりです。罪が侵入した結果、私たちの命を支える植物を育む大切な土に悪影響が起き、その結果、種蒔きから収穫まで苦労の多いものとなってしまったのです。

また創世記3章23節では、「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」とあります。まるで神様は、罪を犯した罰としてアダムをエデンの園から追い出し、汗を流しながら土を耕して、苦労して作物を収穫しなければ生きていくことができないようにされたかのようです。さらに耕すべき土を、「自分が取られた土」とあえて付け加え、人間が土くれにすぎず、全く無力な存在であることを意地悪く言っておられるかのようです。

祝福としての豊かな実り

しかし、果たしてそうなのでしょうか。神様はそのような意地悪をされる方なのでしょうか。この一連のみ言葉の中には、何かもっと深い霊的な意味が隠されているのではないでしょうか。

確かに顔に汗を流して収穫するのですから、苦労も多いことでしょう。しかし、苦しければ苦しいほど、実りを収穫する喜びは大きいものです。苦労の中にも蒔かれた種が芽を出したときの喜びや、大きく成長していく希望、強い雨や風に打たれて傷つきながらも植物たちは天を見上げ、上へ上へと力強く生きようとする。その姿に生命力のすごさを感じずにはおれません。罪を犯し、エデンの園を追い出され、土が呪われたとしても、神様は私たちにご自分の創造の業と、命の神秘や尊さを教えようとしておられるのです。そして、その命を私たちも神様からいただいていることを知るのです。

さらに、罪の結果、土が呪われてもなお命を芽吹き、豊かな実を実らせるということの中に、私たちは罪の赦しを見いだすのです。本当に土が呪われたのなら、種を蒔いても芽を出すことがないか、芽を出したとしても豊かな実りを期待することなどできないのではないでしょうか。確かにエデンの園の実りに比べれば大きく劣るのかもしれないし、顔に汗を流すような苦労も多いことでしょう。このことは自分自身の罪深さを思い起こさせてくれます。しかしそれでも呪われたはずの土から、今も豊かな実りを得ることができるのです。しかも自らの手でそれを体験できるようにしてくださっているのです。

このように考えると、顔に汗を流しながらパンを得るというのは、神様が私たちを罰しているのではなく、むしろそのことを通して私たちは神様の愛と赦しを感じ取り、神様のみもとに立ち返ることができるようにしてくださったのだとわかるのです。

土を耕すということ

私たちはそれぞれの人生において、それぞれの土を一生懸命耕して生きています。土を耕すというのは、生きるということの象徴です。人生には苦しいことがたくさんあります。でも、それは決して罪の罰ではなく、その中で土くれに過ぎない自分の無力さに気づき、そんな自分を命がけで愛し、罪を赦してくださる神様の愛に触れるためなのです。神様から離れてしまった罪人が、もう一度神様の愛に立ち返るために試練や苦難が許され、それぞれの人生の土を、汗を流しながら耕していくのです。

そしてもう一つ、土を耕すことには霊的な意味があります。それはイエス様が「良い地にまかれた種」のたとえ話の中で話されました。たとえ話の中でイエス様は、石地や茨が太陽の光をさえぎってしまうような地に蒔かれた種は、結局実を結ぶことができないということと、それに対して良い地に蒔かれた種は、100倍、60倍、30倍の実を結ぶであろうということを話されました。そして、その種が蒔かれたさまざまな地とは、私たちの心のことであると言われました。

つまり、罪の結果、良い土を作らなければ良い実が実らなくなったように、私たちの心もよく耕し、良い地としなければ、天国にふさわしい実を実らせることはできないということをイエス様は教えようとされたのです。そして、その方法はぶどうの木のたとえ話で語られているように、イエス様につながっていることでした。

神様の深い愛と憐れみ

罪の結果、人間はエデンの園を追われ、顔に汗を流して土を耕さなければならなくなったわけですが、その耕すべき土とは霊的には私たちの心のことであり、その方法がイエス様につながっていることだとすれば、ここで一つ気づかされることがあるのです。それは、エデンの園を追い出されたのは、私たち人間だけではなかったということです。私たちが信仰の手を伸ばし、しっかりとつながっていることができるように、イエス様も一緒にそこを出てくださったのだということです。このように理解するならば、「主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた」というみ言葉の中にも、神様の深い愛と憐れみを見いだすことができるのです。

村沢秀和/むらさわひでかず
神戸有野台教会、三田聖書研究会牧師
1966年富山県出身。幼い頃から教会に通い、20歳の時に受洗。牧師になるべく新潟大学を中退し三育学院に編入。1989年学生宣教師として韓国で1年間働いた後、91年より鹿児島隼人教会を皮切りに、丸亀教会、秋田教会、長野教会、札幌教会を歴任。2016年4月より神戸有野台キリスト教会に赴任、現在に至る。

アドベンチスト・ライフ2019年11月号