セブンスデー・アドベンチスト教会

神様の恵み

神様の恵み

聖書時代の「塩」

ユダヤ人が大切にする「海」があります。それは「死海」です。この「死海」という名前は、ギリシア人がつけたものです。というのも、一般の海より塩分が9倍ほど高いので、魚などが住めないからです。そこで、ギリシア人は「死んでいる海」という意味で「死海」と呼びました。ギリシア人はユダヤ人を見て、かわいそうな民族であると思いました。水も足りない地域に住んでいるのに、海も死んでいる。彼らを厳しいところに置いた彼らの神は、本当に残酷すぎる神だとも考えました。
しかし、ユダヤ人はこの海を「死海」ではなく、「恵みの海」だと考えます。なぜなら、聖書時代は「塩」が大切なものだったからです。特に聖書時代には、給料などを「塩」で与えたりしました。
英語で「給料」のことを「サラリー」と言いますが、この言葉は「塩」を表す「ソルト」から来ています。そして、聖書にも塩の大切さを表す聖句がたくさんあります。その一つとして、エズラ記にはこのように書かれています。

「われわれは王宮の塩をはむ者ですから、王の不名誉を見るに忍びないので、人をつかわして王にお聞かせするのです」(エズラ記4章14節/口語訳、強調著者)

これは、「我々は王宮で給料をもらう者ですから」という意味です。とにかく、聖書時代は「塩」がとても大切なものでした。
ユダヤ人が「死海」を「恵みの海」だと思う理由は、その大切な塩が海の中に豊かにあるからです。彼らは、神様が自分たちに、特別な「恵みの海」を与えてくださったと考えます。ギリシア人とユダヤ人は、同じものを見ても、その視点が違います。その根本的な理由は、神様を信じるかどうかです。

足りなかった3000円

私たちは人生の中で、さまざまなことを見たり、経験したりします。そのとき、どのように考え、感じるでしょうか。実は、私たちがどのように考えたとしても、神様は私たちを守り、すべてのことを導いてくださいます。そして、そのような恵みの中で私たちは生きているのです。

私が今よりもっと若かったときのことです。学校を卒業して、自力で一人暮らしをしていました。学生時代には信仰の反抗期があり、神様や教会から離れたときもありましたが、社会人生活を少し経験してから、心の空しさを感じ、再び教会を訪ね、信仰生活を再開したのです。その頃の私は、なかなか就職できず、パソコン系の資格を取りながら、バイトをしつつ、就職活動をしていました。
ある時、家賃や光熱費、生活費を計算すると、3000円ほど足りませんでした。親にお願いすることもできましたが、事情があってそれができず、少し心配しながら教会に行き、「なんとか3000円を助けてください」と祈りました。そして、アパートに帰ろうとしたところで、教会の執事さんの1人に出会いました。
当時、私が通っていた教会では、少し経済的に厳しいと思われる人を、1期に1人決めて、生活費などを援助したり、学生なら奨学金をあげたりする献金活動をしていました。今回は私に決まったということで、献金が入った封筒をいただいたのです。そして、ドキドキしながら封筒を開けると、その中にはなんと3000円が入っていました。私は神様の恵みを心から感じて、感謝の祈りをささげました。
後日、クリスチャンでない友だちにこの話をしたところ、その友だちは、「まあ、ラッキーだったね」と言いました。そして、「そのお金は、君が祈らなかったとしても、どうせもらうものだったんでしょう」と言ったのです。

神様を信じる人だけがすること

私は神様の恵みについて話したのですが、その友だちは神様の恵みではなく、単に「ラッキーだったね」と思ったわけです。もちろん、友だちが言うように、祈らなかったとしても、そのお金はもらえたかもしれません。
神様を信じない人も、このような経験をすることはあるでしょう。なぜなら、神様は信じる人であれ、信じない人であれ、すべての人に恵みを与えてくださるからです。
信じない人も、お金持ちになったり、良い働きができたり、いつも元気に過ごせています。大変なことがあったとしても守られます。それらはすべての人に与えられている神様の恵みです。
もし神様が、信じる人だけに恵みを与え、信じない人には苦しみを与えるなら、それは愛の神様ではありません。ですから、神様を信じる人も、信じない人も、同じ恵み、同じ苦しみがあるわけです。
イエス様はこのようにおっしゃいました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイによる福音書5章45節)。

このように神様はすべての人に恵みを与えてくださいます。しかし、その恵みに感謝するのは、神様を信じる人だけがすることです。神様を信じる人、そして切実に祈った人は、このような恵みを経験し、神様の恵みを感じてその栄光をたたえます。
もし神様を信じない人が、このような経験をしたとしても、それは神様の恵みと全く関係ないことになります。ただ運がよかった経験、ラッキーだった経験になってしまうのです。

この私の話も、そして最初のユダヤ人の話も、神様を信じるからこそ、その恵みを感じて、神様に感謝の祈りをささげるわけです。私たちは神様を信じるからこそ、祈るからこそ、神様の恵みを経験するわけです。
今、私たちは神様の恵みをどのように考え、どのように感じているでしょうか。もしかしたら神様の恵みに気づかず、感じないで、生きてはいないでしょうか。もしそうであれば、神様との関係を回復して、神様の恵みを感じ、感謝しながら生きることができるように祈り求めたいと思います。

*聖句は©️日本聖書協会

朴 昌/パクチャン

1983115日生まれ。大学卒業後、母国である韓国のIT企業でしばらく働き、2009年に来日。2015年に日本の三育大学カレッジ神学科を卒業し、現在、牧会9年目(20152023年)。

アドベンチスト・ライフ2023年2月号