「受けるに値しない者に対する神様の恵み
「信仰の父」と呼ばれたアブラハムが人間的な弱さを持っていたことについて、聖書はそれを包み隠さず記しています。
神様の召しを受けて故郷を離れた後、滞在していた場所に飢饉があったため、エジプトに移動したとき、アブラムは妻のサライにこう言いました。
「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(©︎日本聖書協会 創世記12章11~13節)。
こんなひどい言葉を、よくも妻に面と向かって正気に言えたものだなと思います。そしてサライがファラオの宮廷に召し入れられ、その見返りとして家畜や奴隷などが与えられたとき、果たしてアブラムは本当に「幸い」だと感じたのだろうかと思ってしまいます。なぜ、むしろ自分が死ぬと言えなかったのでしょうか。一人の男として、夫として、風上にも置けないとは、まさにこういうことを言うのだと思います。
ところが、それよりもっと不可解なのは、アブラムへの神様の対処です。神様に対する不信をあらわにし、異邦の王を欺いたアブラムは罰せられてしかるべきだと思うのですが、彼に対しては何のおとがめもなく、むしろ何の罪もないはずの「ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」のです(17節)。
そして彼は、「アブラハム(多くの者の高められた父)」と名乗りなさいと言われた後にも、再び全く同じ失敗をしているわけですが、これはやはり、一回目のときの対処が甘すぎたから、懲りずに同じことを繰り返してしまったのではないかと思ってしまうわけです。
アブラハムの二回目の欺瞞の犠牲者になったアビメレクに対し、神様は、いきなり病気をもたらすのではなく、今度は夢で警告をしてくださいましたが、ただその内容が、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ」ということなのです(20章3節)。驚いたアビメレクが神様に反論し、アブラハムに対して怒るのは当然のことです。しかし、ここでもまた、問題の原因となったアブラハムに対する神様からのおとがめは一切ありません。
信仰者が神様に忠実に歩んでいるときに、このような特別な守りが与えられるのであれば、よくわかります。ですが、神様に対する不信をあらわにし、自分が危険な目に遭わないために妻を差し出し、他人に罪を犯させるようなことを平気でする人に対して、神様から何のおとがめもないことが、どうにも解せません。
しかし、実は、これこそが神様の恵みであると聖書は教えているのです。神様の恵みとは、受けるに値しない者に与えられる神様の好意です。恵みとは、その人にふさわしいものではなく、その人が必要としているものが与えられることです。そして、この恵みが誰かに与えられるとき、それを見ている周囲の人は決まってそのことに対して不平を言い、つぶやくのです。
分不相応な者に与えられる恵みとしての赦し
放蕩息子の兄も(©︎日本聖書協会 ルカによる福音書15章28、29節)、ぶどう園で朝から働いたのに1時間だけ働いた人と同額の賃金を受け取った人も(©︎日本聖書協会 マタイによる福音書20章10~12節)、レギオンという名の悪霊が取り憑いていた人の救いと引き換えに豚の群れが死んでしまったゲラサの町の人たちも(©︎日本聖書協会 マルコによる福音書5章16、17節)、そして、ザアカイの家に泊まったイエス様を見た人たちも(©︎日本聖書協会 ルカによる福音書19章7節)、皆同様に、神様の恵みを理解することができず、不公平だ、ひいきだと言ってつぶやき、怒りを覚えています。
これは決して、罪人に対する神様の扱いが間違っているということではありません。そうではなくむしろ、恵みをそのようにしか捉えることのできない罪人、すなわち神様の恵みを全く理解しない私の観念がゆがみきっているということなのです。
パウロは、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」とはっきり書いています(©︎日本聖書協会 コリントの信徒への手紙一・2章14節)。
神様が与えてくださる分不相応な恵みを、自然のままの「古い人」である私は決して理解することがありません。頭で理解したつもりになることはあるかもしれませんが、心から納得するということはないのです。私が、恵みを恵みとして理解することができるのは、聖霊の神様が私の内に働き、理解力を与えてくださるときだけなのです。
「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」(12節)。
そして、このことは、私自身においてもまたしかりです。この不甲斐ない私が赦されてしまってよいのだろうか。神様を信じているはずの私が、この間手痛い失敗をしたばかりなのに全く同じことを繰り返すこの私が、本当に救われてよいのだろうか。そう思ってしまうときに私が知らなければならないことは、罪の赦しは、それを受けるに値しない者に恵みとして与えられているということです。そして、私には恵みを恵みとして受け取ることはできません。霊に関することは、神様が与えてくださる霊によって判断される必要があるのです。
神様の恵みを恵みとして受け取る
アブラハムは、神様の恵みを恵みとして受け取り、心から悔い改めていたのだと思います。その証拠に彼は、アビメレクを欺いた後ほどなくして、自分の息子を神様に献げるという信仰を表すことができたのです。
そして、アブラハムに対する神様の恵みの御業を見て納得できない私は、そういう自分がいるという事実に目を向けることがとても大切なことなのだと思います。なぜなら、そのとき私は、自分の観念がゆがみきっていることを知ることができるからです。そして、神様の力は、私のそうした弱さの中に表されるものであることを知ることができるからです。
神様の恵みを恵みとして受け取ることができるよう、祈り求めていきたいと思います。
浦島靖成/うらしまやすなり
アドラジャパン事務局長
1973年、東京(衛生アドベンチスト病院)生まれの47歳。
12年にわたる牧会経験の後、2011年からアドラ日本支部長として働いて早9年。
家族は妻1人、子ども3人、兎1匹。家族と一緒に休日をのんびり過ごすのが何よりの楽しみ。
アドベンチスト・ライフ2020年4月号