セブンスデー・アドベンチスト教会

神を信じる者の二つの名前

神を信じる者の二つの名前

神を信じる者の二つの名前
私たちには誰にも、親や家族がつけてくれた名前があります。そして、神の愛とイエスの十字架の救いを信じる者には、さらに二つの名前があります。
「弟子たちがはじめてクリスチャンと呼ばれたのは、アンテオケにおいてであった。彼らの説教や教えや話題の中心がキリストであったので、この名がつけられたのである。彼らは……キリストと個人的に交わる恵みを受けた日々の出来事を、繰り返し詳しく語った。……彼らはキリストを説き、キリストを通して神に祈りをささげていたのだから、異教徒が彼らをクリスチャンと呼んだのも当然であろう。
弟子たちにクリスチャンという名前をお与えになったのは神であった。これはキリストにつながるすべての者に与えられる、栄誉ある名前である」(『希望への光』1415ページ、『患難から栄光へ』上巻168ページ)。

キリストの証人
神の愛とイエスを信じる者の二つの名前の一つは「クリスチャン」です。世の人の話の中心は、「私が……、私は……」です。それは生き方の中心が「私(自分、自己)」であることを示しています。
それに対して、クリスチャンの話題の中心は、「キリストが……、キリストは……」です。生き方の中心が、「私ではなく、キリスト」であるからです。イエスが何を話し、何を行ったか。また、イエスが私の人生をどのように変え、祝福し、導いてくださったかということを喜びつつ語ったからです。
神とイエスを信じる者のもう一つの名前は、「イエス・キリストの弟子」です。イエスが先生で、彼らは生徒でした。イエスが師匠で、彼らは弟子でした。良い生徒は先生の話を一言も聞き逃すまいと熱心に耳を傾けます。信仰の耳が研ぎ澄まされるのです。良い弟子は師匠の一挙手一投足を見逃さないように、熱いまなざしで師匠を見つめます。信仰の目が研ぎ澄まされていくのです。そして、生徒は先生に、弟子は師匠に似てくるのです。それは先生の(師匠の)言葉や行いの奥にある心を理解しているからです。
イエスを心にお迎えするとき、イエスの心と弟子の心が触れ合います。イエスの心と弟子の心が一つとなり、言葉が一つとなり、行いが一つとなります。イエスと一体となるのです。そのとき、イエスの弟子は、「もう一人のキリスト、小さなキリスト」となるのです。世の人は、イエスの弟子である私たちの中にキリストを見いだします。そのとき、イエスの弟子である私たちは、キリストの証人となるのです。

弟子の「内なるしるし」と「外なるしるし」
イエスは、弟子のしるしについてこう語りました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネによる福音書13章34、35節)。弟子の「内なるしるし」とは、イエスの愛で互いに愛し合う姿です。イエスの愛で愛し合うところに、人は喜んで集まって来るのです。
では、弟子の「外なるしるし」とは何でしょうか。イエスは復活の後、弟子たちに言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイによる福音書28章19、20節)。弟子の外なるしるしとは、「出て行って、すべての民をもう一人の弟子」にすること、イエスを伝えることなのです。
興味深いことに、このときイエスは、「すべての民を教会員にしなさい」とは言わず、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われたのです。「弟子が、次の弟子を」と言われるのです。
ここから私は、バプテスマを授けられた者はすべてイエスの弟子となるように求められているのだと強く思うようになりました。その意味で、私たち一人ひとりは、12使徒(弟子)に次ぐ「13番目の弟子(使徒)」と言えるのではないかと思うのです。私たち一人ひとりはクリスチャンであり、まさにイエスの13番目の弟子なのです。

私が書く使徒行伝29章
「第5の福音書」という言葉を聞きました。それは、イエスの愛に出会い、救われ、イエスと共に歩んでいる「私が書く福音書」です。イエスが私(周りの人たち)に何をしてくださったかを思い起こし、忘れないために、また多くの人に伝えるために書くものです。
12弟子(使徒)のマタイは福音書の記者となりました。ユダヤ人のマタイは同胞のユダヤ人に、キリストが旧約聖書に預言された間違いのない救い主であることを伝え、信じてもらうために、マタイによる福音書を書いたのです。私たちも弟子のマタイに倣い、日本人の私が日本人のために書く「私の(私なら寺内三一の)福音書」を書きつつ、イエスをお伝えしていきたいと思います。
そして私は、もう一つの言葉を聞きました。それは、「使徒行伝は28章で終わっていない。イエス様の弟子である私が書く使徒行伝(弟子行伝)の29章がある」という言葉です。私たち一人ひとりが、神に召されたところでイエスの弟子として歩むときに、使徒行伝の使徒たち(弟子たち)に続く使徒行伝(弟子行伝)の29章を書くことになるというのです。
私たちは、12弟子(使徒)やパウロから、信仰のバトン、伝道のバトンを受け継いだ13番目の弟子として(もう一人のペテロ、もう一人のパウロとして)、彼らと同じ福音を「地の果てに至るまで」伝えていく使命を果たしつつ、使徒行伝(弟子行伝)の29章を書き続け、イエスのご再臨をお待ちしていきたいと思います。

*聖句は©️日本聖書協会

寺内三一/てらうちみつかず

生まれも育ちも北海道。45年前、20歳のときにバプテスマを受ける。製薬会社、三育フーズを経て牧師に。東京や北海道の牧師、横浜シャロームのチャプレンの後、現在、鎌倉教会、茅ヶ崎教会、横須賀教会牧師。

アドベンチスト・ライフ2022年6月号