アメリカで牧師をしていた頃、ある興味深い経験をしました。安息日の午後、15人乗りのワゴン車に青年たちを乗せて近くの町へ行きました。アドベンチストのメッセージが書かれているトラクトや本を配ることが目的でした。8月中旬でしたので、真夏の蒸し暑い日差しの中で汗をかきながらの伝道でした。
数時間もしないうちに、私はクタクタになってしまいました。その時ふっと思いました。初めて伝道する青年たちに悪いことをしてしまったのではないか……。私は少し申し訳ない気持ちになりました。しかし、青年たちや彼らの親にも、日暮れまで続けると宣言していたので、目標の時間まで頑張りました。
やっと日暮れになり、クタクタの私は、「暑かったでしょう。お疲れ様」と言いながら、車で一人ずつ青年たちを拾い、教会へ戻り始めました。その帰り道、私は忘れられない経験をしました。クタクタの青年たちが、賛美歌を歌い始め、さらにその日の体験を語り出したのです。私は、青年たちが辛い思いをし、伝道に苦手意識を持ってしまうのではないかと心配していましたが、青年たちの口からは喜びの証と賛美しかありませんでした。教会に戻ると、ある青年が残念そうに言いました。「安息日は終わりか……」。その日、青年たちは、神様がすべての人のために約束してくださった安息日の喜びを経験したのです。
安息日の喜び
みなさんは、神様が約束してくださっている安息日の喜びを毎週感じておられるでしょうか。あるいは、喜びではなく、安息日は重荷だと感じておられるでしょうか。
イザヤ書58章13、14節に、神様の素晴らしい約束が書かれています。
「もし安息日にあなたの足をとどめ、
わが聖日にあなたの楽しみをなさず、
安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、
これを尊んで、おのが道を行わず、
おのが楽しみを求めず、
むなしい言葉を語らないならば、
その時あなたは主によって喜びを得、
わたしは、
あなたに地の高い所を乗り通らせ、
あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、
あなたを養う」。
これは主の口から語られたものである。
神様は、安息日を喜びの日にしてくださると約束しておられます。しかし、この約束には条件があります。それは、「もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば……」というものです。この条件だけを見てしまうと、閉じ込められたような気持ちになるかもしれません。しかし、この聖句の前の言葉を見てみると、この条件の意味がもっと深く理解でき、あの暑い夏に青年たちが経験した安息日の喜びと祝福を受けることができるのです。
神様が求められる真の断食とは
それでは、イザヤ書58章13、14節の前にどのようなことが書かれているかを考えてみましょう。この章が書かれた元々の理由は、神様が預言者イザヤを通して、ユダの王国にいた偽善者たちに勧告するためでした。1~7節を見ると、ユダの人たちは神様に仕えていると言っておきながら、自分の欲求を満たす自己中心的な存在だと注意されています。そして、彼らが行っていた断食や身を悩ますことさえも形だけであると指摘されています。それは、神様が求めている断食ではないと言われたのです。その直後イザヤは、神様が望まれる断食は人々に真の解放をもたらすものだと書き残しています(6、7節)。
わたしが選ぶところの断食は、
悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、
しえたげられる者を放ち去らせ、
すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、
さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、
裸の者を見て、これを着せ、
自分の骨肉に
身を隠さないなどの事ではないか。
ユダの人々は、断食や儀式を形だけで行い、それらのことを行う本当の意味を見失っていました。意味を考えずに行っても神様の恩恵にあずかれると思っていたのです。そのようにして、彼らは偽善者になってしまったのです(マタイによる福音書6章2節)。偽善者の彼らは、神様が本当に求めていることを忘れていました。それは正しさ(義)です。真の宗教は、公義、いつくしみと、へりくだった心を全うすることだということを忘れてしまっていたのです(ミカ書6章8節)。
しばしば、私たちも聖書の中で偽善者と呼ばれているユダの人たちのように安息日を過ごしているかもしれません。教会には行くが、礼拝後は教会と関わりを持ちたくないと思っているかもしれません。礼拝には出席するが、腕時計を見ながら新年のカウントダウンのようなことをしているかもしれません。私たちは、いろいろな形で偽善者になる可能性があるのです。だからこそ、神様はイザヤ書を通して私たちに語りかけているのです。私たちがそのような道から離れ、安息日の喜びを体験してもらいたいと願っておられるのです。
イザヤ書58章に描かれたリバイバル
私たちが、イザヤ書58章で指摘されている偽善に対する真の悔い改めを体験したとき、イエス様が語られた有名な言葉が生きてきます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11章28~30節)。
私たちは、ときには重荷を捨てますが、イエス様のくびきを負うのを忘れ、神様が用意してくださった安息日の喜びを逃してしまうことがあります。そのようなことがないように気をつけたいものです。
イザヤ書58章に書かれている悔い改めは、リバイバルともいいます。現代の私たちにいちばん必要なことは、まさにリバイバルです。そして、私たちのリバイバルと改革は、創造と救いのしるしである神様の安息日を「砕けた魂」で心から聖とし、聖別することから始まります(出エジプト記20章8~11節、エゼキエル書20章20節、詩篇51篇17節)。それこそが「起きよ、光を放て、主は来りたもう!」の意味であり、安息日の喜びを経験する秘訣なのです。
【著者紹介】
●ジョセフ・デュアート
日本とアメリカで同じ年数ぐらい暮らしています。妻のアリーと3匹のワンちゃんと時間を過ごすのが大好きです。最近は、みんなで山に出かけるのが趣味です。現在、光風台教会、九十九里集会所と市原集会所を担当させていただいています。
アドベンチスト・ライフ2019年6月号