黙示録1章に天上のイエスがヨハネに出会い、語りかけているその言葉が記録されています。
「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である」(ヨハネの黙示録1章17、18節、口語訳)。
「イエスは生きている。聖霊を通して今も私たちのうちに生きてくださっている」。初代教会はこのことを体験していました。そこに彼らの成長の秘訣がありました。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(コリントの信徒への手紙一・15章3~5節)。
パウロは続けて、彼自身に復活のキリストが現れたことを証しします。
「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(同8節)。
復活のキリストは今日も私たち一人ひとりに会いたいと願っておられます。過去のキリストを語ることは、今ここにいるキリストを語ることであり、やがて来るべきキリストを語ることです。過去のキリストしか語られていないところに、現代の教会の弱さがあるのかもしれません。
私たちアドベンチストは、天の至聖所においてイエス・キリストが大祭司として私たちのためにとりなしてくださっていることを知っています。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ人への手紙4章14~16節)。
私たちの罪の赦しは過去に一度だけ起こったわけではありません。大祭司キリストのとりなしも私たちがまったく知らないところでなされているということではありません。私たちが罪を犯し、心を責められる時、大胆に至聖所の恵みの座のイエス・キリストに近づき、その過ちを告白するように勧められています。その時、私たちは赦しと清めをいただきます。大祭司キリストのとりなしが確かな現実であることを知るのです。
すべてのアドベンチストが生ける大祭司キリストの赦しと清めを今日体験されることを祈ります。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ2024年5月号
教団総理 稲田 豊