「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に……このように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(コリントの信徒への手紙一・11章23〜26節)。
7月1日の安息日、久し振りの聖餐式にあずかりました。毎週のように異なる教会を訪問していると、洗足聖餐式を逃してしまうことが多いのです。場所は、中国瀋陽の北関教会、3000席あるセブンスデー・アドベンチストの大教会です。牧師の郝雅傑牧師は女性ですが、120の枝教会の主任牧師でもあります。
洗足式は、安息日学校前から教会堂前の駐車場で男女が共に行いました。私も韓国から来た権政行牧師と、その洗足式に参加しました。洗足式が終わると、あちらこちらで2人、3人が共に祈り合っている姿を見ました。
2200人が出席しての聖餐式、感動的な式でした。パンとぶどうジュースを牧師が掲げて祈り、20人ほどの執事がそれを会衆に配り共に味わいます。その間コワイヤーがずっと賛美を続けます。牧師が何度も涙を拭い、コワイヤーメンバーも賛美しながら涙を流す。もちろん会衆の中にも多くの涙が見えます。それぞれがキリストの死に思いを馳せているのです。
聖餐式は、キリストの十字架の死の記念式です。私たちの救い主が、私たちの罪のゆるしのために肉を裂き、血を流して下さったのです。この贖いの死によって私たちの罪は赦され、罪人であるにもかかわらず私たちは救われて神の子とされたのです。そのキリストの死に、みな感動し泣いているのです。
言葉の分からない賛美を聞きながら、私の胸も締め付けられるような思いへと導かれました。キリストの死を想い、泣いたのはいつのことだったろうか。キリストの死への涙の感動なくして、恵みの福音を本当に語ることはできるのだろうか。福音は当たり前の理屈ではない。福音はありがたい愛の奇跡なのだ。その恵みの奇跡によって自分は救われ、クリスチャンとなり、その福音を伝える牧師となったはずなのに、あまりにも淡々とキリストの死を告げ知らせてはいないか。
中国の純朴で従順な信仰者たちと共に聖餐式にあずかることによって、襟を正される経験をさせていただきました。人間が人間のために死ぬことでさえ、深く感動的なのに、神の御子がこの罪人のためにその命を捨てて下さったのです。この事実と真実を私たちはいかに心に留めることができるでしょうか。
「神を畏れ、その栄光をたたえなさい」(黙示録14章7節)。
教団総理 島田真澄 アドベンチスト・ライフ2017年8月号