銀貨は10枚必要でした。10枚の銀貨が首飾りとなって初めて女は花婿を迎えることができるのです。しかし、その大切な10枚のうち1枚が失われてしまったのです。女は必死に探しました。「ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探」したのです(©︎日本聖書協会 ルカによる福音書15章8節)。そして見つけたとき、大いに喜んだのです。キリストはこのたとえを次の言葉で締めくくりました。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(©︎日本聖書協会 ルカによる福音書15章10節)。
罪人の悔い改め、それは神に背を向け神から離れていた者の帰還を意味します。神のもとに一人でも失われていた者が帰れば、女(教会)も天も大いに喜ぶのです。あなたの教会に失われた一枚の銀貨はないでしょうか。見つけられなければ花婿イエス・キリストを迎えることのできない尊い魂はいないでしょうか。各教会の失われた銀貨を決して忘れてはなりません。その名前を挙げて牧師も長老も理事会も毎日祈りましょう。月に一回、教会はグループ分けしてその一枚の銀貨を訪ねましょう。
一匹の失われた羊をどこまでも探し求めたあの羊飼いの愛と情熱を祈り求めたいと思います(©︎日本聖書協会 ルカによる福音書15章1~7節)。魂への愛を失ったとき、教会はもはやキリストの教会ではなくなります。魂の回復のための涙の祈りを忘れたときに、教会はキリストの教会ではなくなります。キリストの教会として失われた一枚の銀貨、貴い魂のための祈りと働きを回復し、開始しましょう。
家庭の中にも失われた尊い銀貨はないでしょうか。両親、兄弟姉妹、子供たちの中に、神に背を向け、離れている魂はいないでしょうか。もしそのような家族がいれば、これほどの痛みはないでしょう。祈りましょう。あきらめずに祈り続けましょう。「涙の子は滅びない」。背教の息子アウレリウスのために、毎日教会で涙の祈りをささげ続けた母モニカに語られた司祭の言葉です。慰められ励まされたモニカは祈り続けました。やがてアウレリウス・アウグスチヌスは教会に帰り初代教父の一人として、教会に大きく貢献する者となりました。
教会に帰ってきた長欠者の多くは、自分のために必死に祈っていた信仰の友の存在を知ったときに教会に帰る決意をしたと言います。信じて祈り続けましょう。必ず聞かれると信じて祈り続けましょう。家族も教会も祈り続け、賢明に働き続けましょう。
そして失われた銀貨、尊い魂が神の家に帰ってきたときには、教会は喜びをもって彼らを家族として迎えましょう。決してあの放蕩息子の兄のように、嫌悪や憎悪の目で彼らを見ることがあってはなりません。それは信仰の未熟の表れです。教会にはあの父のような慈愛と寛容が必要です。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。……『肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』」(©︎日本聖書協会 ルカによる福音書15章20、23、24節)。これがキリストの教会にとっての自然な姿です。
失われた尊い魂のための祈りと行動を、愛をもってもう一度考えてみましょう。
アドベンチスト・ライフ
2019年12月号
教団総理 島田真澄