セブンスデー・アドベンチスト教会

未来「が」作る

未来「が」作る

今が未来を作る?

ビジネスの世界で多くの人にインスピレーションを与え、日本では、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(通称『もしドラ』)で話題になったピーター・ドラッカーは、次のような言葉を残しています。

「未来を作ることには危険が伴う。しかし、未来を作ろうとしないよりは、そのリスクは小さい。未来作りに取り組む大部分の人が失敗するだろう。しかし、当然のことながら、それに取り組まない人が成功することはない」

ここでは、未来を作ろうとしないこと、流れに身を任せて生きることはリスクが高いので、意識的に未来作りをしましょう、ということが語られています。同じくビジネス界の指導者であるブルース・ローゼンスタインも、「われわれはできうるかぎり、未来へのコントロールを保つべきである」と述べています。たしかに、現在の行動によって自分自身や周囲の未来が形作られるということを、私たちは日常的に体験します。過去の選択や行動が現在を作るということもありますが、いずれにしても、矢印は同じ方を向いています。

未来が今を作る

しかし、ここでは、現在と未来とのそのような関係を、逆転して考えてみたいと思います。つまり、「現在が未来を作る」のではなく、「未来が現在を作る」ということ、現在の私が自由に未来を作るのではなく、未来が今の私を形作っていくということです。

どのような未来を思い描くかによって、今の自分の行動が規定されていくということも、私たちが日々体験していることです。

たとえば、明日来客があるという「未来」が事前にわかっていれば、外出しないようにするでしょう。訪問が数時間なら居間を片づけますが、宿泊を伴うものなら寝具の準備もするでしょう。未来は、単に先にあるもの、時がたてば自然に姿を現すカレンダー上の一点であるというだけではなく、確実に、私たちの現在の価値観や行動に影響を与えます。

再臨という未来に作られる

テッド・ターノーという神学者は、「物語の終わりは、現在に届く波紋を生み出す」と述べていますが、クリスチャンにとっては、物語の終わり、キリストの再臨という未来が、現在の私たちの信仰・生き方を決定づけます。神学者ユルゲン・モルトマンの『希望の神学』には、次のような言葉があります。「終末論的なものは、キリスト教に付随した何かではなく、……キリスト教信仰において一切が規定される原音であ(る)」。終わりは、未来は、私たちの一切が規定される原音なのです。

1844年10月、ミラー運動に参加した多くの人々が、キリストが地上に来られるのを待ち望んでいました。キリストの再臨という未来の一点が、彼らの価値観や行動を決めたのです。期待していた日にキリストはおいでになりませんでしたが、「待つ者である」というアイデンティティは引き継がれ、私たちの教会の名称になりました。キリストが来られるという未来の一点に向き合い、その一点によって私たちの日々が形作られていくという信仰者のあり方は、今も受け継がれています。

終末論と倫理

テサロニケの信徒への2通の手紙は、そのほとんどすべての章にキリストの再臨についての言及があり、キリストが再びおいでになる確信を捨てないようにという励ましに満ちた書簡になっています。

「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」(テサロニケ1・4章16~18節)。

しかし、注意深く読んでいくと、パウロが、単に再臨が「ある」ということだけではなく、信徒たちの日常生活について多くを語っていることがわかります。

「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」(テサロニケ1・4章11節)。

「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」(テサロニケ2・3章12節)。

「情欲におぼれてはならない」(テサロニケ1・4章5節)。

「すべての人に対して忍耐強く接しなさい」(テサロニケ1・5章14節)。

パウロにとっては、未来の再臨を待つことと現在をいかに生きるかということ、終末論と倫理とは切り離せないものでした。イエス・キリストも、マタイによる福音書24~25章では、将来再臨があるということだけでなく、その将来が現在の自分にどのような生き方を求めているかを語られています。テサロニケの次の聖句には、そのような思想がよく表されています。

「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望(終末論)とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように(倫理)」(テサロニケ2・2章16、17節)。

先の聖句にあるように、クリスチャンには「いつまでも主と共にいることになる」という約束が与えられていますが、それは単に遠くにある、今と切り離された時点のことではありません。現在に届く波紋を生むもの、今の生き方を決定づけるものです。「主とともにいる」ということの意味や価値に日々思いを馳せ、その未来の一点によって作り上げられながら、 信仰の歩みを続けていきたいと思います。

*聖句は©️日本聖書協会

長谷川徹/はせがわとおる

北海道旭川市生まれ。三育学院カレッジ神学科講師、三育学院・茂原教会牧師。広島三育学院高校・国際基督教大学・アンドリュース大学大学院修士課程卒。全米名誉学生協会PKP会員。神学に関する情報発信YouTubeチャンネルadvent bridge主催。ポッドキャストPOTLUCK(www.podomatic.com/podcasts/potluckdesu)ゲスト出演。

アドベンチスト・ライフ2021年3月号