「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。ー」(ヨハネの手紙一・1章1節)。
先月号に続きますが、わずか半年前のチャットGPT登場以来、世界は大きく変わりつつあるようです。人工知能(AI)が発達する中、AIに取って代わられない職業や技能は何だろうかという記事を見かけます。
決して機械に奪われることがない人間にしかできないことは何でしょうか。それは感情だと、私は思います。人間は愛し、また憎みます。私たちの愛は、ときに慰めとなり、またときにお互いを傷つけ合います。人間は感情があるから、ときには不合理な判断をします。間違いを犯します。その記憶も混沌として、ときに都合よく改竄されます。AIはそんなことはないでしょう。インプットされた情報を厳密な付与条件に従って処理し、最も合理的な答えを出します。そうすると、人間は不完全なゆえに人間らしいということになります。
教会は人間の集まりですから問題が起こります。ぶつかることもあります。それが教会です。そしてまた教会は、神の恵みにより、それを乗り越える経験もします。それが聖霊のダイナミズムです。コロナで教会に集まり難くなったことで、主イエス・キリストの体、生きている教会のリアルに触れることが減ってしまいました。手で触れるようなフィジカルな交わりがなく、密な人間関係を避けるということは、自ら人間性の核心を放棄することになります。そのあとは無意味な空虚さが続くでしょう。
ヨハネをはじめとする弟子たちは、ときにはぶつかり合いながら、イエス・キリストにあってお互いに赦し、和解することを学びました。その中で主イエスに赦されていったのです。教会もぶつかったり、傷つけ合ったりする。その中で主イエス・キリストに出会い、赦され、またお互いに赦し合います。そのような泥臭い部分が欠けている教会は、決して完全な教会になりえません。お互いに足を洗わない主の晩餐式が完全なものでありえないのは、この事実を暗喩しています。実は、傷つくことこそが人間性の最後の砦です。そして、その傷つけ合う私たちが主イエスによって赦され、ともに生きていくものに変えられていく過程こそが、キリストの体の実態です。それがキリストの十字架を高く掲げることなのです。
「教会はどんなに弱く欠陥だらけのように見えても、神が特別な意味で最高の関心を払われる対象である。教会は神の恵みの舞台であり、そこで神は人々の心を変える力をあらわすことを、お喜びになるのである」(『患難から栄光へ』上巻4ページ)。
*聖句は©️日本聖書協会
アドベンチスト・ライフ2023年8月号
教団総理 稲田 豊